隠居の独り言 72

八月も終わりに近づき、先の戦争の回顧のひとまとめする。昭和15年4月ボクは大阪市西成区岸里小学校に入学した。その年の記憶で覚えているのは「皇紀紀元2600年」での数々の行事で街に花電車が走り国を挙げての祝いだった。♪金鵄輝く日本の 栄ある光身にうけて いまこそ祝え この朝 紀元は二千六百年 あぁ一億の胸はなる・・・しかし「紀元2600年」は第二次世界大戦の始まる前年でもあった。世の中が軍靴の音が聞こえそうな雰囲気の緊張感を感じた。新聞の見出しもカタカナ文字は禁止され、例えば都市の名も伯林・倫敦・羅馬・巴里・維納・莫斯科・紐育・桑港・等々は何となく読めた小学一年だった。女性のパーマも禁止になり服装もモンペになった。軍事色が濃くなる一方で本来なら、この年に東京オリンピックが開催されるはずが中止になった。国連を脱退して、国家総動員例を公布し外国語教育禁止・・マスメディアも軍部と一緒になって国民を鼓舞していたから、今に思えばマスコミも戦争に対し一蓮托生の罪といえる。軍国少年の夢は予科練の「七つボタンに桜の錨」だった。次の年の昭和16年12月8日真珠湾攻撃を口火に遂に米英と太平洋戦争が始まった。緒戦からの連戦連勝の大本営発表のニュースに少年は狂喜し新聞を見入った。確かに昭和17年頃まで東南アジアで日本軍は連勝した。2月にはシンガポールを「昭南島」と改めて拠点とした。しかし戦勝の気分も、それまでで、昭和18年4月には東京に初空襲があり、連勝の浮かれた気分も萎えた。そして珊瑚海海戦を機に日本軍は制海・制空軒権を奪われ、次にフィリピン、サイパンを占領され敗色濃くなっていく。少年には竹槍の訓練が始まった。「一億国民総武装」で一億火の玉、鬼畜米英、出てこいニミッツマッカーサー、を合言葉に国土決戦で竹槍で一矢報いる作戦だった。しかし戦果は我に利あらず、遂に沖縄戦、各都市空襲、ソ連参戦、トドメは原爆投下・これ以上、書くこともない。終戦の夏は本当に暑かった。戦後すぐ連合軍司令長官マッカーサーは厚木飛行場にパイプを咥え飛行機から降りたが、まもなく新聞に東京赤坂のアメリカ大使館を昭和天皇が訪問された写真が掲載され見て唖然とした。大きな体のマッカーサーの兵服姿と、小さな体の天皇の礼服姿を見た瞬間、勝利者と敗北者の否応なく見た。戦争は負けたのだ。あの日から73年が過ぎた。