花吹雪

harimaya2014-04-07

今の東京の景色は桜一色の街並みで
桜の中に東京が存在するといっていい。
一年で最も華やいだピンクの街並みも
僅か一週間ほどで散ってしまうなんて
何て勿体ない自然の法則なのだろう。
思えば人生の青春期があまりに早く
過ぎてしまったような無常観がよぎる。
人生は桜のようなものと八十路に思う。
百人一首から「ひさかたの光のどけき春の日に しづこころなく花の散るらむ」紀友則 
こんな静かな春の日なのに桜はどうしてこんなに散り急ぐのか。平安の人も現代の人も 
歳を重ねると若人を見れば羨ましく妬ましく、過ぎた青春を苦笑いして桜を愛でている。

隠居の独り言(1267)

歳を重ねると自分の顔や姿格好の写真や映像(とくにドアップ)を見るのも嫌になるが
先週のテレビ全国放映で普段顔を合わせる機会のない遠い知人や親戚などが見て
「あらー老けたわねー」と陰口言っているだろうし、中には「いい歳してみっともない」と
軽蔑まがいの声が聞こえてきそうだ。まぁそれはいい。歳を重ねるほどに、ほんとうに
好きだったもの、やりかたかったものをやる。人がなんて言おうが老後を楽しく生きる
条件の一番は好きなものに没頭できることだ。自分には自分の決めた路線で満足で
きればこれ以上の幸せはない。見た目の格好は歳相応に衰えても、今に興味を持ち
今を語れる人でありたいからだ。「今なにやってんの?」と人に聞かれる。今の自分は
仕事も現役だが、お得意先との名刺交換には「カルテット花火」の名刺を出している。
名刺なんて肩書きより自分の名前と電話番号など連絡先があればそれで充分と思う。
むしろ話が発展し親近感で商いに好影響が出るのも嬉しい。今朝、お得意先からの電話で
「テレビを見たよ。素晴らしいねぇ」と言ってくださった。こんな嬉しいことはない。
カルテットの名刺は瓢箪から駒の例えだろう。仕事と趣味の二足の草鞋を履いていたい。
老年、とくに定年後の男性は名刺に肩書きが無くなることはとても心もとないという。
でも肩書きはあくまで現役の看板であってその人を指すものでない。会社を辞めれば
誰にも頼らない自己の世界であって自分本位に生きたい。そして年齢を重ねるごとに
「自分はかく思う」と一人称で話すことに心がけたい。自分の名前で生きるとは自分に
責任を持ち自分で全てを処すことだ。いつも心は自由であり、世間的な価値観を離れ
浮世離れした時をこよなく愛したい。昔、憧れ好きだったものをやれる自由を得られた。
若き過ぎし日の感受性に富んだ青春時代に好きだったものが好きの根幹だと思う。
若さは戻らないが何かを好きになった心の感性は一生変わるものでない。顧みれば
自分は幼少の頃から歌が大好きだった。だから八十路を超えた今でも歌が大好きだ。
どんなに年齢や環境が変わろうと好きな道楽は最後まで変わらない。わらべ歌から
ラテンまで生涯に亘って歌い続けた人生だった。歌とギターと自分に乾杯!