夏の終わりに(2)

1945年の夏、私は小学6年生で父の勤務先の関係で福島県白河市に住んでいた。
大阪から引越しをして間もなく父に赤紙が来て大黒柱が居なくなった我が家は
母と長男の私が、祖母や幼い弟妹たちとの生活のために働かざるをえなかった。
母は銭湯の手伝い私は炭焼き小屋の薪運びの仕事をして生計の足しにしていた。
学校は白河第一小学校に席があったが、ほとんど登校せず働いていた。その様な
子供たちも大勢いた気がする。当時の世相からか親も学校も教育にはそれほど
熱心ではなかったのかも知れない。私の学歴でいえば小学3年で終わっている。
食糧事情は最悪で一日二食それも芋か稗が主でおかずがあればいいほうだった。
お腹一杯食べられるなんて夢の夢だ。近くに寺があって東京から集団疎開で来た
子供たちがいたが彼らは粗末といえ三食で昼間は勉強しているのが羨ましかった。
餓えは体験した者でなければ分からない。飢餓の世界は干上がった水の底に魚が
パクパク喘いでいる心境そのもので、バッタでも蛙でも蛇でもトカゲでも空腹を
満たしてくれるものは何でもよかった。作物を盗んだ事も墓前の供物を食べた事も
罪悪感はまるで無かった。生きる事の厳しさ家族の大切さを知らされた夏だった。
玉音放送」を知ったのは働きから帰って母から聞かされたが信じられなかった。
日本は有史以来無敵のはずだし、負けるなんて今の今まで微塵にも思わなかった。
神風が来て鬼畜米英を吹き飛ばしてくれるものと信じ今の苦労はそれまでの我慢と
自分に言い聞かせ毎日にも希望があった。少年の夢は無残にも砕け散り、泣いた。