夏の終わりに(8)

播磨平野風光明美なうえ北に中国山脈が冬の寒さを和らいでくれ、南には
瀬戸内海があり気候は温暖で昔から農業、漁業が栄えて豊かな土地のせいか
人々の気風もよく暮らしやすい平野として江戸時代にも姫路は大藩だった。
住んでいた家からの遠望は屋島諸島が見え白帆の漁船がうららに浮かぶ姿は
海の輝きに映えて一幅の絵画のように素晴らしく夜には満天の星や月の光が
荒んだ心を慰めてくれた。鳥や虫の鳴き声、蛙の合唱も楽しく、蛍を蚊帳に
入れて光を追いながら寝た。どんなに辛くても希望が見えてきた感じがした。
1947年に学校教育基本法が公布されて、いわゆる6,3,3,4の今の制度が出来た。
私の高等小学2年制度が新制中学2年生に変更になり卒業が1年間延長された。
姫路市立飾磨中部中学校の誕生だったが、学校へは週に一度程度の登校だった。
勤労少年だったことが主たる理由だが、転校で顔見知りも少なく弁当を持って
いくことも叶わない状態では、午前だけの授業の土曜日にしか登校出来ない。
幸いにも家には父が読み古した森鴎外島崎藤村夏目漱石石川啄木などの
本があったので暇があれば読書した。買出しの時も読みながらリヤカーを引き
貝採りにも用事の時にも読み漁った文学少年のような一時期がそこにあった。
長い人生のヒトコマに苦労した事も勉学した事も今の自分の体の一部と思えば
感謝すべきだし、時代背景は最悪でも過ぎてみればいい思い出しか残らない。
新制度が出来てすぐに間にあわないのか学校に配られた少数の教科書は先生や
生徒たちが、ガリバン刷りをしてコヨミで綴じて使用するような状態だったが、
紙も印刷も悪いので、その上をエンピツで書きなぞらえて教科書を作り直した。
戦後のなにもかもが初めての経験に学校も生徒も戸惑いながら頑張っていた。