隠居の独り言(198)

初恋という言葉は幾つになっても懐かしい甘い思い出で胸の内がときめく。
某新聞の地方版でこんな微笑ましい記事を見つけた。今年は伊藤左千夫
代表作「野菊の墓」が発表されて100周年にあたるそうだが小説の舞台に
なった松戸市矢切地区の風致保存会が「第一回初恋短歌大会」を開催した。
「おはようと 挨拶してる 夢を見た これがほんとに なればいいのに」
一等賞の小学校6年生の男子生徒が詠んだ句だが、とても的をえている。
「おはよう」なんて好きな相手にストレートにとても言えたものじゃない。
恥ずかしさが先走る。口から出なくて心臓の鼓動ばかりが高まり顔が赤く
なって悶々とした純真さは、かつての自分を見るように懐かしく微笑む。
「なんでかな 言えない言葉 二文字だけ ほかは何でも言いあえるのに」
その二文字の「好き」と言える年齢になる時分は川に例えれば澄み切った
上流を過ぎて少しは水が濁ってきた中流の場所になってきた所だろうか。
野菊の墓」は15歳の政夫と2歳年上のいとこ、民子との悲恋の物語だが
民子は別の男と所帯を持ち苦労の末、病死するが政夫は民子を野菊に譬える。
私の初恋は中学3年のとき同級生のAに憧れて毎日のように手紙を書いては
破り捨てていた。手渡すのが怖かった。ある日、心に決めて朝早く登校して
Aの机に忍ばせた。あの時の、ときめきは年老いた今でも鮮明に思い出す。
バイロンやハイネの詩を読み漁ったのも夢見る純真な一人の文学少年だった。
初恋は大体が結ばれないもので、だからこそ美しい思い出が残るのだろう。
人生は「川の流れ」に似ている。川は清らかな湧き水に始まり濁りを重ねて
大きくなり滔々と流れやがて終点の海へとたどる。出来るものなら帰りたい。
あの清純な初恋時代に・・