隠居の独り言(230)

師走に入り何かと気ぜわしいが、この季節は「喪中の葉書」が時折舞い込むのが
とても辛いところだ。歳を召されて天寿を全うされた方でも悲しいのに若い方や
普段のお付き合いが途絶えていても、かつての仲間や友人が永眠したと記されて
いると気持ちがどっと沈みこんでしまう。思い出はその人と付き合っていた日の
数々の出来事など自分にとっても人生の一部で帰らぬ過ぎし日を想う毎に無常の
鐘の響きが哀しく聞こえる気がする。今年もかつて親しかった友人一人を失った。
上京して以来の職場仲間だったが頑固一徹の難物だった彼もなぜか私には親切に
扱ってくれて思い出が多いがここ数年は付き合いが途絶えていただけに残念だ。
会者定離は浮世のならいだが、いかほどの方々が自分の生きてきた道に関わって
通り過ぎていったことだろう。この世に生を得て70年の歳月を暮らせたことは
自分に関わってくれた人々のお陰で一人では生きられないのをつくづくと思う。
この暮れになっても著名人の訃報が続く。斉藤茂太、仲谷昇ポール・モーリア
はらたいら木下順二等々、老いと死は世の中で一番確実な出来事で誰にも
避けられないと頭では理解しても、ようやく死を意識しはじめるのは自らが
老いて身近な死の知らせや、新聞の追悼の記事を読んでやっと気付いていく。
人の一生のはかなさを一通の葉書が教えてくれたようで感謝もこめて見つめた。
晩秋の東京は街路樹や公園の木々は美しいがやがてその一枚一枚が風に散って
地上に落ちて土に帰ってゆく。時の流れは美しくもあり反面に残酷そのものだ。
対しての年賀状の出入りが年を経るごとに減っていくのも寂しいが老いていく
人生の先行きを物語るようで仕方がない。師走のお歳暮も年賀状もこの一年を
感謝してお互い近況を伝えて健康と繁栄を祈りあう行事だが、初冬の時分はまた
人生を顧みて感謝する季節なのかもしれない。