隠居の独り言(237)

師走に入って中高年以上の人なら思い浮かぶ季節物には忠臣蔵が欠かせないが
頃は〜元禄15年〜・・講談や芝居でお馴染みのこの劇は1702年12月14日の今日、
赤穂浪士47人が本所松坂町の吉良邸に討ち入りして主君浅野内匠頭の敵討ちを
成し遂げた。ところが歴史的事実はまったく不明で、浅野内匠頭吉良上野介
江戸城中で切りつけて切腹をし浅野家断絶になった。と、確実な史実はたったの
これだけ、なのだそうだ。有名になったのは事件が起きてから47年経った時に
武田出雲ら三人がこの事件を題材に脚本を書き「仮名手本忠臣蔵」として大阪の
竹本座で初演され大ヒットして全国的に広がっていった。「仮名手本」としたのは
いろは47文字を活用して浪士も47人、芝居の幕開きには47回の拍子木を打つ。
忠臣たちの事績を集めたという意味で「蔵」が付けられ「大石内蔵助」の名前も
その辺りから命名されたらしい。今でも芝居の主役は内蔵助役で二枚目があたる。
閑話休題(それはさておき)あれから400年の歳月が流れ両国の吉良邸跡近くは
14-15日には義士祭が開かれ浅野家と吉良家は仲直りして一帯は大勢の人で賑わう。
愛知県吉良町からは新鮮な野菜など持ち込まれて屋台で売られてとても好評だ。
忠臣蔵も単なるオシバイといえばそれまでだが歴史認識というものはオシバイでも
大手を振って歩き始め泉岳寺には47士の墓もあるし吉良邸には首を洗った井戸も
現存しているのも面白い。戦果にしても浪士47人は殆どが無事だが吉良の家臣は
数十名が殺傷されている。哀れなのは吉良家に養子に入った大名上杉家の息子で
咎められて信州諏訪に幽閉され3年後に世を去る、僅か19歳、オシバイは残酷だ。
ついでに言えば浪士の妻や恋人たちには、とても可哀想と同情が集まるが吉良家の
妻女たちのほうがよっぽど可哀想なのにお情けの言葉も無いとはあまりに不公平だ。
たかが芝居、されど芝居だが忠臣蔵はなぜか日本人の心情をくすぐりロングランを
続けている。NHKの大河ドラマにも何度か取り上げられた。    つづく