隠居の独り言(334)

5/13の日曜日は「母の日」だが、母が私たちから旅立って4年の歳月が流れた。
92歳の長寿を全うしたが後半生の35年間はキノホルムの薬害でスモン病に罹り
寝たきりの生活を強いられたのは本人は勿論、付き添う家族も辛い思いをした。
過ぎし日々を訪ねれば母の気丈夫さと優しかった心根だけが今でも胸をよぎる。
「病気に罹ったのはウチでよかった、アンタ達が罹ったら家族が共倒れになる」
といって逆に私達に慰めたのは母だった。薬害は原因追究に時間が掛かるので
判明した時には多くの人が罹患をして被害が全国的に拡大していたのが実情だ。
薬害裁判は医者のカルテや薬局の証明が必要だが、証拠集めが困難で多くの患者が
涙を呑んだケースも少なくない。医者のカルテも法の規定では保存義務が10年で
発病から原因判明まで10年以上の長期間が経っているので殆どの患者のカルテが
入手困難で、薬局の販売記録も7年だから訴訟しても証拠不十分の場合が多かった。
大きな病院ほど保存義務が守られ(当然だが)町の小さい医院に掛かった人ほど
証拠集めがスムースだった皮肉な結果が出てきた裁判でもあった。しかも病院側は
カルテ探しには消極的で裁判所の命令書ではじめて動いてくれる医師が殆どだった。
医は仁術と云う。お金にもならないカルテ探しに積極的に協力してくれるはずの
医師の仁術の実情を知った悲しくも辛い出来事だった。母は明治の終わりごろに
大阪市東区平野町の金融業の裕福な家で生まれて「おいとはん」として育ったが
祖父が亡くなった後は事業も傾き戦争も重なって坂道を転げるように堕ちていった。
母は若いときの事を語りたがらなかったが悔しい出来事が多かったに違いない。
世の中を恨むわけではないが病魔はどうして母を襲ったのだろう。図々しい人や、
狡賢い人がいい目にあう世間の仕組みや運の良し悪しは納得の出来ない事が多い。
波乱万丈の母の人生はけっして恵まれたものではなかったが父や子供への情愛を
注ぎ尽した生涯は満足であったに違いない。「母の日」に思う事はこの母に生まれた
幸せをしみじみと述懐する。