隠居の独り言(500)

ブログ日記とは、一昔前なら想像も出来なかった画期的なもので自分は古希を
過ぎて始めたが書いているうちに様々な好奇心が生まれ、蔵書の数も増えたし
生活の中で暇無く行動する有難味を実感出来たのもブログ綴りの結果と思う。
いつのまにか、この隠居シリーズも500回を数えることになった。自分自身が
隠居もしていないのに「隠居」の二文字が好きで、自分勝手に使っているのは
小僧時代に、いずれは歳を取ったら引退後にそういう身分になりたいものだと
ひそかに憧憬の念を持っていたのが、つい名乗っていたということだろうか。
現在も仕事、孫の世話、その他諸々、朝から晩まで忙しく本当の隠居の身分は
夢と幻で終わりそうだが、せめてブログのネーミングだけは「隠居」でいたい。
日本は昨年辺りから団塊の世代が定年を迎えて、どっと隠居の数が増えている。
昔の落語に登場する「横丁のご隠居さん」は、言葉や語調も中々立派なもので
生半可の知識や経験では、その資格が無い。無論の事、ご隠居さんになるには
若い時から一生懸命働き、年と共に名誉も財産も築いて一定の年齢になったら
次の世代に事業を譲り、庵を構えて好きな趣味三昧に毎日をのんびりと暮らす。
オヤ、熊さんかい、まぁおあがり、お茶でもいれようじゃないか・・といって
熊さん達と珍問愚答を繰り返しながら楽しんでいる。これがホンモノの隠居だ。
そこへくるとヒマもカネもウンチクも無い「播磨屋の隠居」はまさにニセ隠居で
自分ながら恥じているが、ただ隠居を名乗る理由の一つに無責任性の特典があり
政治の批判をしても誰も文句は言わないし文章力の貧弱なエッセーモドキでも
自己責任で、その辺りは許していただけると思うが、ここまで続けられたのは、
ひとえにページを開いてくださる方々へのお陰と感謝している。