隠居の独り言(520)

75歳になって、先日「後期高齢者医療被保険者証」なるものが送られてきた。
スタートして間もなく「長寿医療制度」とか、老人の周知不足で証書を捨てたり
保険証が届かなかったりして散々な混乱続きのようだが、それはどうでもいい。
長生きをして悪かったようなこの何たる無粋な名称の証書なのか。役所の人間に
いちいち言われなくても老いた哀しみを否が応でも体験しているのに、お前達の
人生はそろそろなんだよと烙印を押されているようで不愉快千万このうえない。
医師の日野原重明さんは75歳からを「新老人」と命名されたが、味な言葉だ。
だいたい医療保険証なるものは病院を連想するだけで、忘れかけた病気の事を
思い出して気分が滅入る。後期高齢者になり医療費負担が決まっているならば
免許証等の身分証明書があればそれでいいのではないか。誰もが老いは嫌なのに
わざわざ保険者証を発行し役所が率先して年寄り扱いをしないで欲しいと思う。
この年齢になればトラック一周の人生ゲームは第4コーナーを回ってゴールが
見えるのは仕方ない。誰も歳を重ねて恐れるのは「死」そのものより、どんな
形態で人生の最後を迎えるかで、たとえば「癌」これは最も恐れのうちに入る。
長い病気で寝たきりになるのはもっと辛いし、それも頭の中だけはしっかりして
人に介護してもらうのは最悪だろう。今は何処の病院も医療器具が備わっていて
延命措置を施し管で繋がれる患者が多いがあれは真っ平御免被る。日本は法律的に
尊厳死は認められないそうだが、自分の死期が来たら延命措置はしないで欲しいと
家族に頼んである。畳の上で死にたいのは昔からの願いだが叶えられるだろうか。
話しは湿っぽくなったが、人は亡くなる前に、歩んできた人生が走馬灯のように
頭の中を駆け巡るという。それは嬉しかった部分なのか、悲しかった部分なのか、
その場面によって、その人の人生が黒字だったか赤字だったかの決算書が出来る。
人生の幕引きは、ある日突然スコーンと逝きたい。それも老醜の漂う姿格好の
少し前に身を引きたい。「惜しまれつつ去っていく」それが人生最後の美学だ。