隠居に独り言(553)

戦国時代の独裁者といえば織田信長だが、その志半ばで非業の死を遂げる。
後に天下を取った徳川家康は信長を反面教師と捉えて日本人には専制的な
トップ・ダウン方式は合わないことを悟り、江戸に幕府を立ち上げた時に
政治は話し合いが最も良いシステムと考え最高機関に5人の老中を作った。
戦国乱世の時代ならTOPが物事を即決しないと間に合わないが、平和な
世の中では家康が作った幕府の機構が極めて日本的なものであったろう。
政治は5人の老中の話し合いで決めたものを将軍が裁定するという体制は
時代により多少の違いはあっても基本的には徳川幕府そのものだった。
老中は武家諸法度によって必ず譜代大名から選ばれ(幕末は崩れていくが)
外様大名はたとえ多くの禄高があっても(前田100万石、島津77万石等々)
老中になる資格は無かった。つまり関が原以前から徳川家に仕えた家来の
譜代には禄高よりも役職を与え、外様には禄高は多く与えるが中央政治に
関与する権利を与えないという絶妙のバランスを持った幕藩体制だった。
江戸時代の体制は徳川家を筆頭に全国の大名達との連合国家といってよく
大元は幕府が決め地方行政は各大名が各自に決めて治めた事は300年近い
平穏な江戸時代が続いた大きな要因だろう。聖徳太子の時代から和を尊ぶ
日本人の心情を見事に政治に生かした家康の統治の天才ぶりがみてとれる。
今の国会の答弁も官僚の作文を棒読みしている大臣が多いが、江戸幕府
幕臣(官僚)がしっかりしていれば将軍は凡庸のほうが良かったのだろう。
NHK大河ドラマ篤姫」は、次期将軍を巡っての一橋慶喜平岳大)派と
紀州慶福(松田翔太)派の熾烈な争いだが次期大老(老中TOP)を巡っても
一橋派・松平慶永矢島健一)と紀州派・井伊直弼中村梅雀)が争った。
結果は島津斉彬高橋英樹)や篤姫宮崎あおい)の望みも空しく、大勢は
紀州派に傾き、将軍家定(堺雅人)の「紀州がいい」の一言で決まってしまうが
その言葉も直弼が意図的に広めた風聞で証拠は無い。政権交代による権力争いは
付きものだが、井伊直弼大老に就任した事により日本史上で、かつて無かった
稀な独裁的による峻烈で残忍な思想弾圧は、これまでの調和の話し合い政治を
見事にぶち壊してしまった。大老井伊直弼の就任で、それからの日本の針路が
どれほど歪められたか、想像を絶するに余りある。