隠居の独り言(661)

そもそも彼岸とはインド・中国にも無い日本仏教独特のもので、起源は
聖徳太子の頃からとも云われ、江戸時代に入り民衆的な広がりをみせた。
昼夜の時間が同じになる時期に生活の区切りをご先祖に報告する意味を
含めて墓参りが行なわれ今に至る。彼岸は人生の区切りを問うときだが
晩節になった昨今はゴールのテープをどのように切りたいかを考える。
先日の報道によると東大病院でガン患者と医師を対象とした意識調査の
結果が発表された。「望ましい死を迎えるのに必要なこと」の問に対して
最後まで病気と闘う、という回答に患者が8割に対し医師は2割だった。
誰もが最後まで治療を求めるのは当然の考えだが医療現場に臨む医師は
やりすぎると患者に却って悪い結果になってしまう現実を認識している。
治る見込みのあるうちは勿論治療に専念すべきだが治る見込みがないと
分かった時は残された人生の時間を甲斐の無い治療に費やすのは勿体ない。
いつかは巡る自分には白い壁の病室の中で副作用の苦しい治療をするより
どうせ苦しむなら家の一室で好きな音楽のCDやDVDでも聴いたほうが
痛みも和らぐだろう。人は誰も死が怖いし生きるためには希望が必要だが、
僅かの命を長らえるための「偽りの希望」という治療にしがみつくのは
どれほどの意味があるのか。息絶えるのは人生の確実なメニューコースで
人生レストランの席に着けば後はオマカセで料理が順繰りにやってくる。
人間が屋久杉のように1000年以上の命を頂ければ森羅万象、物の道理が
分かるだろうが神さまの設定された人間の命は100年足らずしかないのは
人間はあまり長生きするとロクな事しか考えないから、お許しにならない。
「柳、やなぎで世を面白く、うけて暮らすが命の薬、梅に従い桜になびく、
その日その日の風次第、嘘もマコトも義理もなし・」江戸端唄の一節だが
現代のように医学が進歩していなかった昔の人は死を素直に受け止めた。
だからこそ生きる楽しみを満喫出来た・・命は自然に逆らいたくない。