隠居の独り言(717)

「こずかた(盛岡)の城の跡の草に寝て空に吸われし十五の心」啄木の詩が
大好きだった中学の頃、就職で東京行きが決まったある日、姫路城の草叢で
空を仰ぎながら啄木の気分で、希望と家族と離れる寂しさで一人涙を流した。
昭和24年春、中学を卒業して上京したころ姫路から東京までの乗車時間は
14時間掛かった。当時の東海道本線は沼津までがSLで電気機関車と接続で
駅に20分ほど停車した記憶がある。ほどなく富士の高嶺が見えて美しさと
これからの希望に感動したものだ。長時間の汽車旅はタターン・タターンと
レールを軋む音が耳から離れるには時間がかかる。中学を出た少年にとって
それほど当時の東京は遠い土地だった。そして何もかもが未知の土地だった。
叔母を頼って帽子製造業に就いたが当時は昔からの商家の習慣が色濃く残り
丁稚小僧、手代、番頭、旦那までの上下関係は厳しく、先輩から仕事教わり
他に家事一切から雑用まで起床から就寝まで休みなく働くのが日課だった。
一般のサラリーマンと違って住み込み小僧は衣食住には事欠かないが給与は
小遣い程度で技術を付けて貰うのが労働の見返りで、盆と正月の薮入りの
里帰りには旅費、洋服、小遣いが与えられ、いわゆるボーナスの形だった。
一時解雇された事も、結核で入院して絶望した事も、でも耐えられたのは
心身ともに若かったからで、今に思えば自分の青春時代、真っ盛りだった。
あれから60年有余。好きだった啄木の純粋さは失せたが、今はすっかり
東京人になりきり関西へ旅しても懐かしさより初めて見る風景に思えるのは、
ふるさとはもう遠い彼方なのか。既に関西弁のアクセントは喋れないし、
疎開した頃の東北弁も忘れている。それでも基の関西人のDNAは忘れ難く、
もし大阪と東京が戦争をすれば大阪軍の一兵卒になるだろう。現在に至る
浮き草のような流浪の一生でも、いつも生まれ故郷の匂いは抜けずにいる。