隠居の独り言(737)

日本の歴史を大きく変えた関が原の合戦(1600)は東西両軍ともに誤算だらけで
誤算に上手く対処出来た家康(松方弘樹)が三成(小栗旬)の誤算を上回った。
家康の会津上杉景勝北村一輝)兼続(妻夫木聡)攻撃は三成挙兵の呼び水で
西軍挙兵は想定内の出来事でも毛利輝元中尾彬)まで味方して聡大将に就任し、
淀(深田恭子)とともに大坂城に構えることは豊臣恩顧の武将を従える家康には
不安は頂点に達し、北から上杉、西から毛利に挟撃される非常事態に身が震えた。
かたや三成側から見れば徳川連合軍が上杉軍と戦闘が始まってから挙兵するのが
ベストタイミングだったが結果的には半月ほど早く挙兵してしまい徳川連合軍は
上杉と戦うことなく温存した兵力を栃木の小山で反転させて大阪方面に向かう。
もし現代のように互いの動きを瞬時に把握できていたなら三成と兼続は連絡して
最良の時期に決起したに違いない。僅か数日のタイムラグが運命を分けてしまう。
なぜ西軍・聡大将の毛利輝元大阪城にいて戦いに参加しなかったのか。家康の
「戦闘に加わらなければ所領は保証する」という密約をのんでいたのだという。
直接的には毛利一族の小早川秀秋上地雄輔)が裏切り東軍の勝利が決定したが
そこに至るプロセスは一口では言い尽くせない。関が原での三成が編み出した
西軍の配置は、後年のあらゆる戦術家から見ても完璧なものであったという。
歴史にイフは存在しないし書くのも哀しい。ともかく武運つたなく三成は敗れる。
戦いから2週間が経った10月1日、三成は京の都を惨めに晒され引き回された後、
六条河原で斬首された。享年40歳。敗軍の将をそこまで卑しめる家康は鬼なのか。
辞世の句「筑摩江や芦間に灯す、かがり火と、ともに消えゆく我が身なりけり」
筑摩江は琵琶湖東北部のことで自領佐和山城から眺めた湖の風景は、かつて長浜で
秀吉に仕えたときを想い、あの世で秀吉と話すのが楽しみという意もあるという。