隠居の独り言(793)

三月は卒業シーズン、学生たちは進学に或いは社会にそれぞれ大きく育っていく。
思い出せば15歳の春に中学校を出て上京してから早60年以上の歳月が流れた。
卒業式の一月程前に担任の川崎先生が○○君、答辞を読みなさいと言われて驚き
そして先生の熱いご厚意と無事に終えた安堵が今も生涯の宝のように思えてくる。
当時自分は吃音者だった。その吃音者に卒業生を代表して答辞を読ませるという
川崎先生のご決断は障害を愛でくださった教育の崇高な精神であったに違いない。
吃音者というのは人によって違うが、言葉が途切れた時、カ行とか、タ行とかが
つまって言葉が出ない。吃音者が歌をすらすら歌うのは言葉が流れているからで
先生は答辞を、歌うようにゆっくりとした気持ちで話しなさい、とおっしゃった。
文章は先生と相談して父が巻紙に書いたが全て暗唱し本番は巻紙には目を通さず
講堂の一角を見つめて朗々と話せたことは夢のようだったが、次のプログラムの
仰げば尊し」を泣きながら歌ったのも夢の続きだった。思えば吃音という病は
不思議なもので一旦、自信がつくと今までが嘘のように饒舌になる。川崎先生は
数年後に亡くなられたが、後ろ向きの性格面も卒業式を境に明るくなった気持と
指導してくださった先生のご恩はまさに「仰げば尊し」で生涯忘れることは無い。
昭和22年に教育基本法が制定され6,3,3,4制が決まり高等小学校が新制中学校に
変わって義務教育が一年延長されたが、当時の風潮は戦後の混乱と食料の不足の
生活が社会一般で高校・大学に進学する生徒は少数で子供も家業の手伝いなどで
不登校が多かった。保護者にも学問は余計なことだと考えられていた空気があり
学校に行きたがらない子供に対しても親は強いて登校させなかった。子供心にも
早く大きくなって家業を継ぐ気分が強かったし、子沢山の家庭が多く長男以外は
食い扶持減らしに家を出た。上京して小僧になったのも、ごく自然な成り行きで
都会の商家では丁稚奉公の少年・少女は溢れていた。毎年、この時期になると
卒業式の感涙と社会に出た感慨が込み上げてくる。