隠居の独り言(824)

三つ子の魂、百までもという。歳を経て、つくづくと思うのは様々な人生経験で
どのような曲がり道があっても子供の頃の環境とか実体験といった素地がないと
それを受け止めるアンテナがうまく働かない。戦後の極端な飢えに苦しんだ事が
物の大切さと有難味を植えつけられたし、若い頃のハングリー精神の基も付いた。
兄弟たちで僅かの食料を分かち合ったのは、情愛そのものの学習にほかならない。
買出しで片道10里の道を歩いたのも足腰の鍛錬に良かった。歌は長年に亘って
風邪を引かない原因の一つかも知れない。55歳になってからギターを始めたが
オタマジャクシに抵抗感が無かった事も、そういう小さい時に植えられたものが
老いた時にも手助けになるのだと今更ながら親に感謝している。姫路の暮らしは
2年半に過ぎなかったが中身は生涯の中で最も輝いていた。生活、仕事、飢餓
学業、喧嘩、初恋・・大人への道程は厳しいものであっても、苦しい学習こそ
大人になって、いい花を咲かせる肥料になったと、苦労を懐かしむ今が幸せだ。
歌の話に戻る。登校日数は相変わらず少なかったが音楽の時間は楽しかった。
初めての英語の歌はフォスターのOld Black Joeで得意になって歌っていた。
余話だが現在の教科書にフォスターの歌が無いのは何故か?考えさせられる。
音楽の植田先生はとても素敵な美人で優しくしていただいたが結婚をされて
学校を去られる日に手紙を書いた。文面は忘れたが何故か胸がときめいた。
あわただしくも全てが新鮮だった姫路の生活も学校の卒業が別れの節目だった。
上京の夜、駅のホームで聴いたのは、二葉あき子の「夜のプラットホーム」で
今も聴くごとに状況と重ね合わせ目頭が熱くなる。