隠居の独り言(931)

ここ数回、大河ドラマを見ていない。三年前の「篤姫」のヒットで作者・脚本を
田淵久美子に依頼して柳の下の泥鰌を狙ったのだろうが視聴率はイマイチという。
それもそのはず「篤姫」の場合は史実的にも得体のしれない「大奥」という場で
作家的フィクションの部分を大いに生かせられたけれど「江」の場合の背景では
戦国から安土桃山時代で歴史的事情が見る者にとってある程度の知識があるので
ドラマの中の少女マンガ的な筋書きには飽きられ視聴率にも影響していると思う。
昨夜もそうだった。秀吉(岸谷五朗)は関白宣下を受け天下人への道を着々と進む。
しかし秀吉にも思い通りにならないものがあった。抵抗する家康(北大路欣也)だ。
秀吉が何度上洛を促しても挨拶に訪れない。悩んだ秀吉は家康を呼びつける策を
江(上野樹里)に相談したが一方的に思いを通そうとするのに卑怯千万と言い放つ・・
こういうところが歴史を習い温故知新を深めようとする視聴者には受けがたい。
秀吉は多くの戦略・知略家を部下に持ち天下の行く末の大事な曲がり角の箇所で
(秀吉の生涯で最も魅力のある時期なのだが)僅か10歳の小娘の「江」を呼び
相談することも会うことだってあり得ない設定で、そのうえ織田信長の姪といえ
立場が違った秀吉に猿呼ばわりとは事実なら「江」は投獄または追放ものだろう。
大河ドラマは歴史物語であり当時の封建主義、身分制度を忘れてはならないのに
今の感覚をもとに現代風に描かこうとすれば、それは大河で無くなってしまう。
かつて太閤記を執筆した吉川英治舟橋聖一海音寺潮五郎司馬遼太郎たちは
なんと評価されるだろうか?お怒りになるのか?それとも一笑に付されるのか?