隠居の独り言(977)

災害は忘れた頃にやってくる。今年の防災の日は東日本の3.11の記憶に尽きるが
何度も繰り返される災害は日本列島が火山帯の上に位置しているので今更でなく
日本人は昔からそれなりの覚悟を持っていなければならない宿命を背負っている。
叱れるのを承知で言わせてもらえば先の地震津波で命を落したい人は気の毒だが
江戸期や明治の三陸津波を教訓としなかったのは歴史を学ばなかった行政であり
日本人の油断の結果といえるのではないか。いつも甚大な災害があった直後には
将来の備えに気持ちが懸命に働くが、やがて時の経つごとに備えも薄れ忘れていく・・
今回も1000年に一度の大地震らしいが、それは遠い将来の子孫に託すしかない。
それなら災害に怯えながら暮らすより万全の心構えを持つことが3,11の教訓だろう。
思えば東日本大震災は未曾有の天災で原発事故も歴史的な惨事だ。しかも不幸な事象は
管首相自らの復旧復興の妨げは総理の人災であることは政界では常識になっていた。
今日の防災の日大正12年(1923)9月1日関東地方を襲った震災で東京は焦土と化し
人々が呆然自失となった日だが、それでも即刻、東京の復興に立ち上がった男がいた。
その人は後藤新平。たまたま前の内閣が解散して山本権兵衛が組閣の途中の事だったが
内相・後藤は即刻、役人に命じて軍の倉庫を開いて被災者に食料や日用品などを供給し
金融機関が復活しないので卸業者に現金を渡して各地から品物を集め青空市を開いた。
新都市計画のため旧地主に断固たる態度をとり下町の区画整理に協力を仰いだという。
避難で死者を出した隅田川吾妻橋清洲橋厩橋を架け、避難場所として隅田公園
錦糸町公園、横浜の山下公園も作られた。これにより東京は生まれ変わって近代的な
都市基盤が整備され今の首都が成立し後藤の熱意に官民上げての態勢で震災からの
復活を遂げた。今回の震災では既に6か月も経つのに復興プランすら示されないのは
どうしてだろう?野田新内閣はこれからどう立ち向かうのか?復興、円高、財政、外交
問題山積だが、無理なら解散してやり直そう。