隠居の独り言(996)

慶長19年(1614)11月に大阪冬の陣が始まった。豊臣方と徳川方と大きく分けて
大阪城に籠城する豊臣方の殆どは浪人であり城を包囲して攻めたのは現職である
大名たちだった。この事実は関ヶ原の戦いの後には徳川の覇権が完全に確立して
全国の大名が従い徳川が豊臣を攻めると決めたら大名の一人も反対できなかった。
もし反対すれば大名は改易される。だから豊臣恩顧といえども家康の命令ならば
大阪城の淀(宮沢りえ)や秀頼(大賀)や千(忽那汐里)を攻めざるを得なかった。
城に籠る浪人の多くは関ヶ原の敗者たちで全国に散らばっている不穏分子であり
全てを潰すには数が多くて無理なので、ならば大阪城に集めて処分すればいい。
豊臣方に戦略があったならゲリラ戦をやるべきだったが一か所にまとまったため
組織力のある徳川方に簡単に掃討される結果になる。浪人達を大阪城に入るのを
わざと見過ごした家康(北大路欣也)の戦略は巧妙で、えげつないものであった。
古希を超えた老人の家康という男の忍耐力と戦略勘の凄みは今更ながら驚嘆する。
結果からいえば豊臣家が滅びて一年後に家康は死去するが淀君のヒステリックな
誇りと焦りが原因だろう。でもそれを差し引いて地方の一大名になったとしても
秀忠(向井理)や三代家光(水原光太)の代になって豊臣恩顧の加藤家や福島家が
改易されたように豊臣家も滅びる運命にあったに違いない。歴史の流れというのは
力を持つ者の論理が正義であり衰退する者は容赦なく滅びゆくのは言うまでもない。
大河ドラマ「江」は愈々大坂冬の陣が始まった。江戸城の江(上野樹里)は皆の無事を
祈るしかない。20万の大軍を擁した徳川方に10万の豊臣方は籠城へ追い込まれる。
それでも家康は次の一手として和睦を提案する。城内では秀頼が和睦の申し入れに
応じようとするが徹底抗戦を貫く構えの淀は、それを制して自らの信念を通すが・・