隠居の独り言(1076)

小学校で英語の勉強が必修化され高学年になると授業が始まる。たしかに世界の
共通語は英語が主流で仕事や観光など海外へ出かけて英会話が出来れば楽しいが
だからって英語を教えるだけで秀でた教養人や国際人に育つのとは別問題と思う。
勿論英会話が出来るのは素晴らしい。でもその前に私達は日本人として普段から
日本語をきちんと話をしていることに疑問符が残る。流行語や略語の乱発なのか
いつの日からか言葉の美しさが失われている気がしてならない。最近の日本語の
感性の貧しさに驚くのは政治家や有名人のボキャブラリーと表現力のひどさよ!
テレビのインタビューなどで得意気に自分の喋りに相手の返事も聞かずに途中で
「ハイ」「ウン」「エエ」の句読点を入れるのは会話をそこで完結させ相手の心を
入れる隙間が見当たらない。豊かな会話とは互いの絶妙のラリーであり、たとえ
雰囲気や成り行きで脇道に外れていくことがあっても、むしろ話が弾んで面白い。
会話とは予定の調和が半分で残りは偶発への妥協で成立するものだと識者はいう。
今の若者はヤッパ、スッゲー、ヤッベーなど奇声を出して発言するが程度問題で
話す言葉の起承転結もなく訳の分からない赤子言葉に似てこれは日本語じゃない。
江戸期の寺小屋は「読み書き算盤」で話し方の基本、手紙の書き方、礼儀作法、
他は実学で家業や職業別に学びここで勉学し、ここから巣立って大人になった。
幕末明治に外国と交渉した役人の見よう見まねの外国語の習得は見事の一言だ。
最近のPCや携帯の発達で日本人は手紙を書く習慣を失った。手紙を綴るときは
相手に対する感情を文章にして推敲しながら一字一字を大切に書くのが基本だが
PCや携帯での瞬時に「選択」や「決定」を押してしまったら言葉なんて要らない。
言葉は思考とともに頭の中に蓄積された表現であるはずだが若者の略語は空しい。
小学生には英会話よりも日本語の美しさを先に教えるのが本来の教育ではないか。
外国語には縁の無い自分だが子供に正しい日本語をきちんと教えて欲しいと願う。
「挨拶もできぬ子供が英語塾」時事川柳から