隠居の独り言(1126)

生きる限りブログを続けたいと願う。スイスの哲学者アミエルは著書「日記」の中で
「生きるということは日ごとに快癒し新しくなること、また自分を再び見出し回復する。
日記を綴るのは孤独なものの友であり、慰め手であり、医者である」と書いているが
幾つになっても日ごと新しくなるという精神のエネルギーに満ち溢れているのがいい。
年齢を言うのも今更だが歳を重ねると身体が衰え全身に皺が増えてみすぼらしくなる。
鏡を見てどんなに繕ってみても、そこには老いた顔という物質しかない。それは皮膚と
肉と骨の衰えた集合体だが鏡は心の内部は映らない。けれど「風貌」という言葉がある。
風貌とは顔という物質+人生を如何に生きてきたかの醸し出す雰囲気の姿格好を指す。
仕事や稽古一途に生きている人の顔に年齢は感じられない。肉体の一部の顔ではなく
眼に光がある。口元が切れている。人が見ても稽古一途が作っている顔かたちは美しい。
顔は年齢でなく風貌で作るのがいかに良いかは「あの人、いい顔ね」と誰もが認める。
年の初めに感じるのは年齢は一年毎に増えても気持ちはいつも甦りたいと願いをする。
たまゆら」という題名の小説を曽野綾子が書いている。「たまゆらの恋」ともいうが
毎日電話を掛けあったり休日には指を絡めて歩く恋ではない。一口にいえば思いだけ
残って永遠に実現しない恋のこと、いわゆる忍ぶ恋であって最高の恋と言う人もいる。
古今東西、名を成した芸術家の殆どは「たまゆらの恋」を体験して名品を残している。
ショパンのピアノも、ダビンチのモナリザも、西鶴浄瑠璃も「たまゆら」から生まれた。
たまゆら」は未完の美学といえるが人生もたいていは未完のままで終わってしまう。
人間が200-300年も生きると殆どが分かるから神さまは人の寿命を100年未満とした。
でもそれでいい。未練が残るのも人生の面白味だろう。完成に向かう夢があってこそ、
歩くことができる。今年も一歩一歩、歩みが遅くても明日に向かって歩きたい。