隠居の独り言(1216)

NHK大河ドラマ「八重の桜」は「襄の遺言」だが改めて今回の準主役である新島襄
調べてみた。襄は天保14年(1843年)江戸の神田にあった上州安中藩江戸屋敷で、
安中藩士・新島民治の子として生まれる。生まれて七五三太(しめた)と命名された。
この名は祖父が、女子が4人続いた後の初の男子誕生に喜び「しめた」と言ったから
付けられたという由緒は面白い。小さい頃は活発な子供だったようで左のこめかみに
一生涯傷が残ってしまうような大怪我をしたこともあった。襄は最初に藩主の命令で
蘭学の勉強を勤しむが、ペリーの来航以後アメリカに興味を持ち、その後千諸万端が
あって21歳の時、襄は国の法を犯して函館からアメリカに密航。到着後に、幸いにも
ピューリタン篤志家の援助で高校、大学を卒業し主として自然科学の勉強をする。
この間、日本は江戸幕府が崩壊し明治維新を迎えていたが、密航の犯罪も問われず
キリスト教主義の大学を祖国日本に作り人材を養成したい」と、この主旨に賛同した
アメリカ人の多くの寄付で京都に同志社英学校を創立したが、学校は宣教師たちが
強く望んだ伝道師養成やミッションスクールでなく広く人間教育に重きを目指していた。
このような生涯をおくった襄(オダギリジョー)を弟子だった徳富蘇峰中村蒼)は後に
「典型的日本人であって彼によって日本はかくあるべきだと教えられた」と述べている。
前置きは長くなったが幕末から明治にかけて日本は憂国の志士から開国の開拓者まで
きららのように優秀な人物が出現した。事実、幕末から明治維新にかけての日本の
近現代史は世界のどの国の歴史に比べてもヒケを取らない素晴らしいものと確信する。
その事は偏見のない外国の識者やアジアの多数の指導者が認めていることでもある。
ところが国内では「自国の歴史に誇りを持て」と言うだけで危険な考えでもあるように
非難する人も多いが戦争に負け「日本だけが悪かった」と戦勝国が作り上げた偏った
歴史を教え込まれた後遺症が残るのは情けない。日本人はもっと自信を持つべきだ。
ドラマは八重(綾瀬はるか)が心配するなか襄は同志社大学にする資金集めのため、
欧米に旅立った。留守を任された八重だったが女学校の運営方針をめぐって米国人
宣教師たちと口論になり険悪な状態になる。そこへスイスの襄から遺書が郵送される。
一方、覚馬(西島秀俊)のもとに青森から青木栄二郎(永瀬匡)という書生が訪ねてきた。
彼は山本家に住み込み始めるが、次第に時栄(谷村美月)に好意を寄せるようになる。