隠居の独り言(1782)

作家・渡辺淳一氏が亡くなった。同じ1933年の生まれで自分も患った前立腺がんが
死因と聞くと近しい人のように思えてくる。新聞の連載の「うたかた」で渡辺氏を知って
その後「失楽園」や「熟年革命」など愛読した。男女の情愛の形を詳しく描き続けたが
医師として、ベストセラー作家として多くの特に女性ファンにもてたというから羨ましい。
でも医師ゆえに自分の病の行く末を知っていたはずで心の葛藤は人に知る由もない。
晩年は老いに向き合い生き方、愛し方を探求した人間としての満ちた人生を全うした。
渡辺氏の訃報を知るまでもなく以前は新聞のページを繰るとき有名人の死亡記事を
読む習慣があった。自分の年齢に照らし合わせ自分より若い方は気の毒と思ったし
自分より年上は慶事の至りと思ったが今はさほどではなくなった。別にこの世の命を
悟ったわけでないし生きる自信が生まれたわけでない。人の価値は命の長短でない。
石原裕次郎美空ひばりの52年の短い生涯も常人に味わえない満足度だったろう。
渡辺淳一氏の華やかな向日葵の人間も馬の骨の月見草の人間も死は平等に訪れる。
今になって生きる勿体なさを気づいた己だが他人の寿命と較べることはとても愚かだ。
早かれ遅かれ人は死ぬ。森羅万象、万物は時間の中に寄生している。時間は宇宙が
出来る前からあり宇宙の滅亡後も永遠に続く。信長は「人間五十年、夢幻の如く也」と
本能寺で舞って死んだが永遠に続く時間からみれば人生なんて目バタキに過ぎない。
でも自分に与えられた自分だけの時間は誰が死のうが宇宙が滅びようが自分の体が
滅びたとき自分の思想も真理も自分の宇宙も全てが終る。若い時分には死の概念は
遠いものだったが今は想像でも幻想でもなく現実がそこにある。歳を取るということは
体の部品の賞味期限が切れていつ爆発してもいいような病の一つやふたつを抱えて
生きているようだ。死ねば馬の骨も道端の雑草の肥やしとなって草は喜びその実は
赤く熟して鳥や獣が食べる。その鳥や獣を人間が糧にして養われるのが大乗仏教
世代を継ぐ輪廻の考えだが、我が家はその枝葉の浄土真宗西本願寺に属している。
なるようにしかならない自分だが、今日の生きていることを感謝するのを忘れない。