隠居の独り言(1326)

お彼岸が近いせいか、新聞のチラシには墓の案内が多い。今までその手のチラシは
見もしないでゴミとしていたが少し気になりだしたのはやはり年のせいか。田舎出の
自分はいずれ墓を買わなくてはと思いつつ日伸ばししているのは墓の観念の迷いだ。
墓について考える。我が家の宗旨は浄土真宗で死んだら浄土に行くことになっている。
浄土というのは西方十万億土の彼方にあるというから相当遠いところにあるのだろう。
家が真宗を宗旨にしているのは死後の浄土に行く予約切符を買ったみたいなものだ。
でも考えれば自分という一個の人間を構成している部分の何が浄土にゆくのだろうか。
気持ちだけが行くのか。体の一部分が行くのか。遺骨というからお骨だけが行くのか。
お坊さんに聞いてもおそらく答えてはくれない。「あなたの全てが浄土にゆくのですよ」
親切なお坊さんならこうおっしゃってくださるだろう。しかしあなたの全てと言われても
亡くなった年齢によって随分違う。萎びてしまった今より、若かりし元気な自分の方が
遥かにいいに決まっている。一説には三途の川を渡るというが老人はとても渡れない。
無事に渡ったとしても川の向こう岸に遣手婆というのがいて着ている物を剥がされる。
次に生きていた時の所業についての裁判がある。殺生、盗人、嘘つき、姦淫、暴飲・・
これら五つの罪を犯した者は即刻地獄行きの判決で、自分も100%地獄決定の身だ。
この歳になって過去を悔いても懺悔して反省しても犯した罪を元に戻すのは不可能だ。
無論、これらは子供の頃に聞かされた大人たちの俗説に加えた架空の話に過ぎない。
我が家の宗旨は浄土真宗だが、浄土とは信者がいつもナムアミダブ、ナムアミダブと
念仏を唱えていれば阿弥陀如来が自分に代って救済してくださるという仏教の一派で
これを「他力本願」という。13世紀に親鸞聖人が全国に広めた浄土教といわれている。
親鸞の浄土思想は、まことに簡便で仏教の「空」という思想を阿弥陀如来だけという
唯一なもので、「空」とは善人も悪人も分け隔てなく救ってくださる、つまりみんな死ぬ
ということにほかならない。死ねばおしまい。何も残らない。これが浄土真宗の基本だ。
だから仰々しい位牌も戒名も簡素だし寺との密な関係もそんなに必要がないと感じる。
ただ浄土真宗は戦国時代に大阪で織田信長と戦い、調停をめぐり教祖の親子喧嘩で
本願寺が西と東に分かれた経緯は信仰する者にとっていかがなものかと思ってしまう。
浄土宗はキリスト教のように魂は神のものという観念がないために死ねば「往生」して
生死を行き来するが、その点キリスト教は神のもとに還る観念で宗教観がまるで違う。
といって自分は無信心、無宗教というつもりはない。多くの日本人がそうであるように
正月には初詣で神社に手を合わせ、彼岸には墓参りをし、年末にはクリスマスを祝う。
だから宗教論争は避けたい。それぞれの信仰を人に押し付けることもしてはいけない。