隠居の独り言(1331)

秋が深まってきた。「読書の秋」というけれど手紙も秋に相応しい。といって正直いうと
手紙を貰うのが好きで、自分から手紙を書くのは文章の書き順が不勉強で、そのうえ
字体が小さく汚いので自分が嫌になる。それなのにポストを気にするとは自分勝手だ。
それでも手紙の味を覚えたのは中学生の頃でそれも恥ずかしながら恋文からだった。
初めて便箋に自分の気持ちを充分伝えるため書いては破り、破っては書いた経験は
青春の巻頭の一ページだったがポストに投函でなく朝一番に登校し彼女の机の中に
そっと入れた緊張感は今も忘れない。ポストに投函なんて、両親に怖くてできなかった。
今に思えばママゴトだったが少年の芽生えとは、そんな幼稚でも真剣そのものだった。
上京後も毎日のように故郷の父母に手紙を書いた。父母も自分が心細い思いをしている
だろうと頻繁に封書をくれた。親の手紙がどれほど心強かったか言葉に尽くせない。
よく、手紙では意をつくせないから話をしたいという人もいるが、正面に向かうと却って
思ったことが言いにくいことが多いし、話がひょっとして口がすべってということもある。
手紙ならまず下書きを作り、よく推敲してからしたためる。ことに、感情が高ぶるときは
文章も乱れ、まともなものは書けない。今、書いているのも下書きがあって完成させる。
文章を書くという行為は人を高める効用があると一人合点している。書いているときは
一時的にせよ普段よりちょっぴり良い人間になっていると自負している。それは知らず
知らず恥ずかしくない自分を演出しているようで見て下さる方に対しているからだろう。
人に向かっているときは社交の仮面を被っている。心にないことを平気で言ってしまう。
酒を呑む人なら飲んで本音を出す事もできるが下戸には本音を引き出す手段がない。
文章というのは話すより本音が出るものと思う。耳で聞く話より目で見る文章のほうが
本心を表している。先日図書館で「手紙集」という本を読む。それによると昔の作家は
実にたくさんの手紙を書いている。啄木、漱石、鴎外、しかも長い文章で短編小説に
匹敵するようで文豪は手紙を書くときも時間の経つのも忘れ相当なスピードで書いた。
今では原稿用紙にペン書きすることもなくPCのキーボードに打ち込むのが普通だが
便利でいい時代になったとつくづく思いながら指を叩いている。書いていて思うのだが
以前は長い文章ほど書くのは大変と考えていたが、むしろ短い文ほど難しく書きにくい。
今度生まれたら小説家になりたいと願う。自分の文章を戯画化できるのは素晴らしい。
どんな画一な世の中になっても文章の味付けは自分だけのものでそれがたまらない。