隠居の独り言(1361)

帽子屋一筋に通した人生も少なくなってきた。自分が帽子製造の職業に就いたのは
昭和24年、帽子屋に嫁いでいた叔母を頼って上京してからだが中学校卒業間近の
父の言葉が大きかった。「お前は帽子屋になるといい。なぜなら帽子屋は景気がいい。
帽子屋は駅の周辺には必ず二、三軒はある。大人も子供もみんな帽子を被っている。
幸い叔母も帽子屋だし将来は明るいぞ」父に言われて少年は頷いて未来の夢を見た。
たしかに住んでいた兵庫の田舎町も歩いている大人も子供も殆ど帽子を被っていた。
上京した終戦後の物が不足している時代でも大人は中折帽子や鳥打帽、夏になれば
パナマにカンカン帽、そして軍帽もあった。なにせ男性のシンボルは帽子を被ることで
子供でも小学校から大学生まで帽子は必需品であり、それは生活に溶け込んでいた。
昭和初期には日本人の冠帽率が実に95%だったいう報告もある。昭和の繁華街の
写真を見て無帽の人は滅多にいないと気づく。父が帽子屋を勧めた気持ちが分かる。
帽子を作るには長期間の修行が必要だ。単に帽子と言っても種類により製法が違う。
例えば縫製を主にするハンチング帽と型入れを主にする中折れ帽とは職人は別人だ。
一人前になるのは普通、十年はかかる。根気のいる仕事で手作業を腕に覚えさせる。
最初は裁断。反物を生地の厚さによって偶数に畳み裁断場の上に置き、形板を添え
特殊な手包丁で裁断をする。裁断したものをミシンで縫う手順だがその縫製が一番の
ポイントで帽子の「出来」の善し悪しの殆どが縫製で決まる。縫製は職人の腕次第で
器用な人は上達が早く、その上きちんと仕事を手早く出来るのが一流の職人といえる。
小僧は職を身に付けるために朝早くから夜遅くまで働かされても文句は言えなかった。
朝の早いのは職人ばかりでない。陽の上がる前から声を枯らせて豆腐、納豆、野菜、
牛乳の売り子の声は下町の朝の風景だった。中には田舎訛りの声が強く響いていた。
今でも長いお付き合いの人がいる。けれど最近は帽子の職人の仲間たちが激減した。
まず後継者がいない。どんな職人も根気が必須だが現代の若い人には根気がない。
職人が一日中何時間もミシンを踏み続ける作業を見れば大抵の若い人はそれだけで
拒否反応を起こす。しかも休みなく働く親の姿を見れば後を継ぐべき子供の姿がない。
自分が修行した時代はみんな貧乏だった。それと職業の選択をするほどの職種もなく
義務教育を終えて一部の裕福な家庭の子弟以外は丁稚の道だった。時代が変わり、
量産品は海外の安価は労働力に頼り、日本の職人は仕事を奪われ既に風前の灯だ。
日本人はものを作るより考える時代に入ったと痛切に思う。今の若い人たちは斬新な
センスを持っているが量産の根気がない。帽子一筋に生き昭和から平成にかけての
帽子産業の盛衰を見た思いがする。これからの若い人たちに帽子の将来を託したい。