隠居の独り言(1382)

映画やテレビドラマには必ず脇役というがある。脇役というのは言うまでもなく主役を
ひき立てるための役柄であり、たとえどんな優秀な主役でもそばに脇役がいなくては
ドラマは成り立たない。たしかにどんな人でも自分の人生の舞台は自分が主役であり
それぞれの場所で登場する他人様は脇役だ。しかし他人から見れば自分は他人の
脇役であり他人様のお役にたっているか、お邪魔になっているかは他人様が決める。
人を立てることは、やがて自分に降りかかる。それが人生哲学の一環だと思っている。
先週、近所の老人ホームで弾き語りの慰問演奏をした。慰問は自分の好みの歌より、
お年寄りの好みを優先する。だから前もって係りの人からリクエストを頂戴しておく。
決して演奏者は主役になってはいけない。自分も老人だが、まだまだ先輩もおられる。
ホームは同じ世代を生きた同士だから話も弾み、こちらが慰問されている気分になる。
慰問で感じるのは孤独になりがちな老人には何かと話すのが一番の処方箋だと思う。
もしかして、いつかホームでお世話になるかもしれない。今はそんな気持ちの慰問で
若い頃は老人を労わる気分だったがホーム慰問演奏も今昔の心の変化は否めない。
船頭小唄、戦友、かえり船、宵待草、里の秋など昔の歌を歌い、アンコールを頂いた。
マイウェイを歌った。♪すべてはこころのきめたままに・・・歌はある程度、人生経験を
重ねた人でないと、歌の意義と味が出てこない。自分もマイウェイを歌える歳になった。
マイウェイの過ぎし日を顧みれば、自信過剰だった天狗の鼻もあったかも知れないが
年を重ねるごとに一歩下がる術を覚えていくのも、ひいてはそれが自分のためになる。
老人は心も老いていく。心が頑固になるタイプと穏やかになるタイプに分かれるという。
歳を取ってみなければ分からないことだが、老いへの理性を失ってはいけないと思う。
最近、老妻が腰足を痛めて自分が家事一切をした時、その大変に改めて思い知った。
若いころに一人住まいの体験はあるが数十年も経っているので今は要領仕方が違う。
食事の支度、後片付け、洗濯、物干し、部屋の掃除、買い物・・日々の家事を体験し
感じたのは今更ながら自分の人生舞台を支えてくれた縁の下や黒子達に感謝したい。
家庭という小さな社会だって独りでは成り立たないことを、身をもって実習させられた。
晩年になって脇役の大切を思い知ったが、それは自分の父母にとって、妹や弟にとって、
仕事仲間にとって、友人にとって、子や孫にとって、かつて自分は我が儘でなかったか。
関わった人への重要な脇役でいられたか。脇役を忘れて失礼な振る舞いなかったか。
あまりに遅きに失したが晩年に、しみじみ省みる。人生は目立つ花よりも雑草がいい。
目に見えぬ空気がいい。路傍の石がいい。