隠居の独り言(1404)

「ラテンバンド花火」を辞して今はラテンの歌を歌う機会がなくなった。辞してといえば
聞こえはいいが、バンドのレベルに付いていけなくなったのが本音だ。ラテンの歌は
スペイン語で、しかもライブの演奏では歌詞も楽譜も完全に覚え、譜面台は置かない。
歌詞を覚えるだけでも大変なのに自分のパートのベースギターも難しくそのうえ重い。
単に音楽が好きだけでは気力、体力、技術力が伴わず仲間に迷惑かけるだけなので、
辞することにした。淋しいけれど仕方ない。音合わせの練習時、ライブ本番の時など
その気分、喜び、高揚感は言葉に尽くせないほどの人生の充実感を味わうことができ
しかも昨年はNHKの「熱血オヤジバトル」でメンバーたちと全国放映されたなんて、
人生の晩年を飾ってくれた数々の満足の思い出は、今更ながら感謝してもしきれない。
今もラテンの魅力忘れがたく通勤途中に電車やバスの中でヘッドフォンで聴いている。
今はひとりでギター弾き語りを趣味としている。時々近所の老人ホーム慰問で演奏し
楽しんでいるが歌うのは殆どが演歌で古賀メロデー始め昭和の歌謡曲はウケがいい。
演歌で気づいたのは歌詞がとても美しいことで今更日本語の原点を知る思いがする。
話は外れるが、今の言葉の乱れはひどいもの、若者の符牒なのかTVの影響なのか、
「キャー、ヤダー、マジー、ヤッパ、スゴーイ、ナンデー」冠詞も形容詞もリズムも皆無。
そこには日本語の本来あるべき話し言葉の文法的基礎がまるで無いのは聞きづらい。
若者だけでなく、いい歳をしたオバサンまでが「―なのデェ」「―するトォ」「―だかラァ」
あれは自信無さなのか、カマトトぶりなのか、オバサンの甲高い声に耳を塞ぎたくなる。
普通に話していれば、それだけで魅力的なのに、なんのために阿呆を装うのだろうか。
そんな若者、オバサンたちは、ぜひ昭和の演歌を歌ってほしい。自分も以前は演歌を
あまり知らなかったが、歌ってみて今の日本語を支えているのは演歌の歌詞ではないか。
♪伊豆の山々 月淡く 灯りに咽ぶ 湯のけむり ああ初恋の 君を尋ねて 今宵また
ギターつまびく 旅の鳥・・・」古賀メロデーの「湯の町エレジー」の一節だが、山と月と、
灯りと湯と、別れと涙、失恋の心。自然の美と人の情を見事に表現する演歌の歌詞の
きちんとした日本語を現代の人は伝えてきたのだろうか。ともすれば外国語かぶれで
あちらの言葉を話せる人達を敬う風潮だが、その前に美しい日本語が先ではないか。
カラオケの大好きなオバサンたち、ぜひ熱唱する歌詞を生活に生かせてほしいと願う。
ところでラテンの人たちの言葉はどうなのか。日本のように乱れているのか、気になる。