隠居の独り言(1405)

先日、法事で故郷に帰ったが、5年前に帰ったばかりなのにもう景色が変わっていた。
その昔、帰郷のときは播州平野に入ると、汽車の窓から遥か遠くに姫路城の天守
見えはじめて心が逸ったものだが、今では窓どころか駅に着いても城のかけらもない。
駅そのものが新しいビルに生まれ変わり出口も駅員に尋ねなければ外に出られない。
新しければ何でもいいというものでない。本来なら見慣れた原風景を子孫に残すべき
財産なのに、その辺りについても日本人は随分と無神経になったものと、つくづく思う。
昔「ふるさとは遠きにありて思うもの、そして悲しくうたうもの」と、室生犀星は詠ったが
故郷の風景は遥か遠くに去って、兄弟親戚、訛り言葉、幻想の中にしか残っていない。
むかし好きだった恋人に歳を取ってから会うものでないと人は言う。美しかった面影と
思い出をそのまま胸に抱いていたほうが狼狽、驚愕、幻滅を味わうことがないからだ。
でも恋人は覚悟して会うと思えば存在するが、昔の風景は永遠に会うことは叶わない。
東京にいても故郷に帰っても、そんな苦い経験をどのくらい味あわされたことだろうか。
子供の頃住んでいた姫路市飾磨の家の前は田畑が広がり遠くに瀬戸内海に浮かぶ
家島(えしま)が縁側から遠望できた。近くの海岸は塩田跡で少年は夕飯のおかずの
ハマグリやアサリを取り、たまにタコやウナギも獲って、一家団欒の絶好の糧になった。
朝焼けの家島、夕焼けの家島、少年の脳裏に焼き付いたふる里の景色は家島だった。
その家島は姫路の町のどこからも見えなくなっている。あの美しかった家島が消えて
消えただけでなく、追憶を引き出すかけらさえなく、田舎の風景は破壊されてしまった。
故郷だけでなく全国津々浦々が日々変化している。人が多いためだろう。国土狭隘な
日本列島で生きるため、山を壊し、谷を埋め、緑が少なくなるのはやむを得ないだろう。
変化激しい世紀に生まれた自分に置かれた宿命というべきだ。これが江戸時代なら
生まれたままの風景の中で生涯を過ごすことができたろう。北斎や広重の浮世絵の
デザインだって美の風景が変わらなかったからこそ創作の妙が生まれたに違いない。
江戸時代は人口が少なかった。約3000万の日本人が日本列島に住んでいたという。
明治の文明開化の波を経て、とくに太平洋戦争後の人口爆発で今や1億2000万人。
日本の風景を作るよりも、風景を失うことに夢中であった。でも最近の少子高齢化
風潮は昔の風景を取り戻すチャンスで、まだ充分残っている美しい風景を子孫に残す
気持ちがあれば何らかの秩序があって然るべきだ。未来の若者の知恵に期待したい。
東京から富士山が見える。 雲一つないとき、朝日に浮かぶとき、夕富士のシルエット、
美しくも替え難き日本の財産を失ってはならない。