隠居の独り言(1431)

今年も「敬老の日」がやってきた。「多年にわたり、社会に尽くしてきた老人を敬愛し、
その長寿を祝う趣旨で定められた」とされる。要は「長寿がお目出度い」と国が定めた。
果たして長寿というのは本当に目出度いのだろうか。最近は「老後破産」という言葉も
現実味を帯びるし、老いると人の世話にならなければ寿命を全うできないのも現実だ。
若き日の歌友の病気見舞いに行った。自分と同年で何とも不運としか言いようがない。
病名は彼の名誉のため伏せるが意識は一応はっきりしていても身体が全く不自由で
いわゆる寝たきり老人になっている。友に話かけても通じているのか、耳が遠いのか
答えが半分も返ってこないのが辛い。昔はW大学グリークラブで鳴らした友だったが
昔日の面影なく、とても悲しい。友と歌った「遥かな友」を耳元で囁いたが反応も今一。
おむつをして、看護師から幼児言葉で話しかけられ歯が抜けた半開きの口の状態に、
人生の旅路の果ての哀れさが身にしみて涙が出る。正直いつか自分の成れの果ても
こうなのかと思うと切なくなってくる。今、延命治療は日進月歩というが友には悪いが、
これが本人の幸せのためなのか、それとも家族たちの別れの悲しみの先送りなのか。
そこに人間の尊厳も美学もなくただ身体にチューブを付けられ生かされているだけだ。
果たして、こういう人間の延命措置が良いのか悪いのか凡庸な自分には分からない。
人生の終末は誰もこうなりたくない。自分もできるなら或る日突然、生涯を終えたいが
諸行無常、人生は始めから終わりまで自分の思うようにならないのが、現世の定めだ。
最近は高齢者の増加と医療費の増加で入院日数も短縮され家に戻される患者が多く
これから家庭の介護が増えていくだろう。まして福祉施設や病院と違って介護の場が
整っていない家庭で、どうやって寝たきり老人を介護するのか、悩み多いのが現実だ。
家族であれ、介護という仕事は決して、きれいごとで済まされない大きな厄介といえる。
病院に行けば年寄りばかりで、病室にはこれほど多くの長命者が横たわる状態では
平均寿命が世界一と寿ぐが、実は生き続けるために、ただ生きている人が多いので
数字的に、世界に冠たる日本人になっている気がしてならないのは自分だけだろうか。
先日発表された日本人の健康寿命は、男71歳、女75歳だが、その後の平均寿命に
達するためには男は9年間、女は11年間、人の世話になりながら生きねばならない。
その人の過去がどんな立派な社会人であっても、悲しいかな病と死は必ずやってくる。
大勢のお年寄りが市場の魚のようにずらりと並んだ寝姿を見てこの方たちも、かつて
青春があり、幸せな家庭があって、素晴らしい仕事をされた壮年時代があったはずだ。
延命医療など無かった昔、人は病に倒れれば朽ちゆくままに死んでいったし、本人も
命の終わりを自覚して自然体に逝った。人生とは何か命とは何か「敬老の日」に思う。
古今和歌集「ついに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思わざりしを」と
在原業平が詠った。人生の末路を思い家路についた。