隠居の独り言(1451)

今年は戦後70年の節目の年とあってテレビも新聞もいろいろと企画記事があったが
自分は昭和8年生まれ、終戦の年12歳。戦争を生々しく体験した最後の世代となる。
74年前1941年12月8日未明に日本軍が真珠湾攻撃したことから戦火が切られた。
あの朝、臨時ニュースを聞いた近所の人達が大騒ぎしていた情景が忘れられない。
アメリカは「リメンバーパールハーバー」として日本が奇襲攻撃したことになっているが、
日本が前日にきちんとアメリカに宣戦布告をしたはずなのに米大統領ルーズベルト
受け付けず、アメリカ人の士気を奮い起こすため布告を隠して卑怯な日本人とされた。
アメリカ情報局も日本軍が真珠湾に向かっている情報を知りながら国民に知らせず、
真珠湾から新鋭艦を退去させ湾に残されたのは古い軍艦だけで日本軍はこれを沈め、
大本営は大勝利と発表した。既に日本政府や軍部の情報の暗号が完全に解読され
手の内を見透かされていると知らずに意気揚々と真珠湾に向かったとは、笑い話だ。
開戦前のアメリカの国内世論は対日、対独戦争への反戦・非戦論が強かったという。
今のアメリカ同様に、外国に行ってアメリカの若者を犠牲にすることへの抵抗だった。
それを「卑怯な真珠湾」ということでアメリカ人の全てを起ち上がらせる結果となった。
プロパガンダという魔法の杖と愚かな日本軍部の作戦で完膚なきまでの敗戦だった。
日本の愚かさは、当時の日本が細々と絹製品や雑貨をアメリカに売ってアメリカから
石油を買っていた、そのような日本が戦争を起こせるはずがないのに今も分からない。
当時の日本の国力はアメリカの10分の1以下で子供が力士に喧嘩を売ったようだ。
それでも日本とアメリカは戦争直前まで交渉が続けられていた。所謂ハル・ノートでは
日本は中国から手を引き、満州事変の前までに戻れという。当時の近衛文麿総理は
ハル・ノートに理解を示したが日本人全て戦争賛美の狂乱の渦に巻き込まれていた。
近衛文麿は戦後、戦争責任をとって自殺したがその覚悟を戦前に示して欲しかった。
国民も政治もマスコミも常に正気でなければいけないという平凡なことを忘れていた。
その平凡な心を取り戻したとき既に遅く日本は高い授業料を払って戦争が終わった。
でも今に思えば日本が戦争に負けて良かった一面もある。ハル・ノートを完全に受け
日本の領土が当時のまま残っていたなら、朝鮮半島、台湾、樺太などの統治費用に
今尚注ぎ込まねばならず欧州の難民情勢を聞くまでもなく民族間紛争で治安も悪い。
日本の土地の日本人だけの伝統文化がどれほど素晴らしいかを噛みしめてみよう。
戦前の軍国少年は、あれから幾星霜を経て老人になった。ときどき戦争がなかったら
自分は今ごろ何処で何をしているのかなと思うことがある。今更恨みつらみはないが
戦争のために大阪、福島、姫路、東京と転々とした。戦争がなければ生まれた大阪で
平凡に暮らし郊外のホームで「歳やさかい、もうあかんわ」と愚痴こぼしているだろう。