隠居の独り言(1465)

猫も杓子もスマホの時代になっている。いっぽうでは活字離れの時代と言われている。
調査によれば高校生の一日の読書時間が10分位とか、月に換算しても数時間だろう。
他のメディアの発達でスマホ、テレビ、ゲーム、漫画、刺激的なものまでいっぱいある。
本を手に取ってわざわざページを繰るという作業は必要ない。小説もスマホで読める。
人間というのは元々面倒くさいのが嫌いだから、もうこれは仕方ない時代なのだろう。
でもメディアでの映像や音声は相手から一方的に受け取るもので自分の意思がない。
読書はそうはいかない。読むことは能動的であり、本の意味を取り出さねばならない。
それは他でもない。読書は考える力を養うことで、読むのが嫌いな人は考えることも
嫌いになってしまう。だから現代人はまたスマホ、テレビに向かう悪循環に陥っている。
皮肉なことに文明の発達のスピードの加速度に人間の脳が追いつかないのが現状だろう。
と言っても人間はバカじゃない。たとえ活字が嫌いでも体験から学んだものも多いだろう。
時代は早足だ。時代は止まらない。振り向きもしない。止まれば置いてけぼりにする。
置いてけぼりの遅れた人を嘲笑する。その人が泣いても愉快そうに見ているだけだ。
若い世代が旧世代が作り上げたものを鼻先でせせら笑いながら崩そうとする世間だ。
図式として新は旧を倒し王座に座るのは当然のことだが、それにしても変化が早く
ガキの遊戯のまま大人になった昨今だ。旧の大人も大人で世の中に関わろうとすると
幼稚を競い合っている。歳を重ねたことが恥辱と感じるのもおかしいし、齢を少しでも
わかく見せようと、世間一般の商品は若者にターゲットを絞って考えている。かくして
若者のための若者文化の社会になり、誰もが大人になろうとしない。昭和に生まれた
古代人は記憶を辿る。記憶は懐古でない。記憶を辿るのは文化の継続と思うからだ。
戦時中、我が家には珍しく蓄音機があった。それも英語禁止の戦時最中でありながら
ポータブルと呼ばれていた。亡き父が洋楽が好きで手に入れたものだろうが鉄針が
盤の溝をこすって音楽が聞こえる。もちろん手動式でハンドルを回して聞く。戦時中は
蓄音機は、とんでもない代物だから聞くときは雨の日や風の強い日に紛れて聴いた。
記憶の音楽は「小さな喫茶店」「青空」「ジェラシー」など御法度のタンゴを聴いていた。
戦争が終わり蓄音機も電蓄になりSPがLPになり盤もアセテート製になって割れない。
しかし機械が良くなって反面に音楽が衰退した。美しいメロディや躍動感ある音楽は
もう出てこない。スマホをこなせる世代に、むかし歌があったよと聞かせたい。