隠居の独り言(1479)

近くの小学校から卒業式に歌う「蛍の光」が聞こえてくる。今年も卒業シーズンがきた。
昭和24年(1949)の3月吉日、兵庫県姫路市飾磨中部中学校では3年生の卒業式が行われた。
自分から言うのも、おこがましいが、卒業生120人を代表して答辞を読ませて頂いた。
中学3年生といっても、一年前に戦後の6-3-3-4制の学校新制度が施行されたので
3年生は新制中学を一年しか学んでいない。1-2年間は高等小学校だったが戦後の
物資不足で教科書も満足になく先生がガリ版刷りで教本を作り生徒もそれを手伝った。
薄っぺらな紙を綴じた教科書は時には字も薄く刷れ手書きをしなければならなかった。
それも学校を毎日通ったわけでなく何を学んだのか記憶すらない。ただ国語の時間で
夏目漱石の「坊ちゃん」の朗読や石川啄木の詩の暗記で勉強したのは教科書不足の
一時しのぎのものだが、今思えば純文学に触れて、却って良かったのかなとも思える。
今の小学教育は例えば敬語の使い方も教えず目上を尊ぶ学習もないのは間違いで
先生も生徒に対して友達のように接しているのは子供が社会に出たとき惑うばかりだ。
戦中戦後の小中学生といえば昭和一桁生まれで1935-1945年にかけての10年間の
戦争最中は皇国戦時教育で学問より鍛錬、戦後は食料の増産のために小中学生も
大人と共に開墾に駆り出された。戦争による教育崩壊の割を食ったのは昭和一桁だ。
戦前の義務教育は尋常小学校6年で終了になるが更に2年間の高等小学校の道が
一般的だった。戦後間もなくで新しい教育制度改革は混乱もあったろう。自分は
新制中学3年なのに1年生の出発だった。面白いのは「英語の時間」は英語の歌であった。
フォスターのオールド・ブラック・ジョー「Old Black Joe」を音楽の先生が英語の時間と
して歌詞の解説と合唱で歌ったが初めて歌う新鮮な英語の歌に生徒たちはとても喜んだ。
教科書不足で何もかも手探りの学校教育だったけれど思えば現在よりも内容が濃い気が
している。学校の勉強とは何が良い良くないの論議より「読み書きそろばん」が基本で
教科書が無くても、ノートが無くても、鉛筆に事欠いても、楽しく学んだ体験が身につく。
テレビやネットを見ても「ヤッパ」「キモイ」「イイネ」の一言二言で終わってしまう。
他に表現の言葉が出てこないのか、昔の豊かに満ちた日本語の今の貧困が嘆かわしい。
中学を卒業した後は、大半の生徒は家の農漁業を継ぎ、一部は会社の仕事に就き、
一部は都会に出て丁稚になり、高校進学は3割、大学まで進んだのは2割弱だった。
現代は殆どが大学まで進むが、それだからって、学問の中身が伴っているのだろうか。
自分は東京に出て小僧をした。70年前の話だが、卒業シーズンになると胸が熱くなる。
家を出るとき、母は駅まで行くと悲しいからと玄関で別れた。母は毎晩泣いたという。