隠居の独り言(1480)

お彼岸に入ったが自分の年齢も八十路を歩んでいるので、そろそろ墓のことを考える。
そもそも墓って何だろう。単に遺骨の置き場で遺族がたまに参りに来るだけの場なら
何の価値があるのだろう。人間であれ生物であれ死ねば何もない「無」になってしまう。
体というモノがあって精神が宿るのであり、体が死ねば死骸だけが残り心は残らない。
日本人の多くは仏教信者だが、釈迦の教えでは死ねば成仏し「無」に帰っていくという。
仏教の葬式は坊主が経を唱えるが、経の意味なんて聞いている人は誰も分からない。
そもそも釈迦は経を一冊も書かなかった。それを弟子たちが、釈迦がこんな話をした、
あんな話をしたという言葉を纏めて経典ができ、それが回り巡って日本にやって来た。
しかも釈迦は2500年も昔のインドの生まれで遠く中国経由の教典は中身も変化する。
そんな中国語の経本を音で読み、漢字の当て字を読んでいるようで聞いている人も
亡くなった人も全然分からない経を読む意味、聞く意味が葬儀の式として分からない。
経を読む坊主も納得しているだろうか。それとも、訳分からないから有難いのだろうか。
聞いているほうも退屈で早く終わればいいと思う。聴く人が、きちんと分かっていれば、
いいこと言うなぁ、このセリフはいいなぁ、と思うだろうが、100人に1人もいないだろう。
それに対して誰も不満も言わず、ただ早く終わればいいなぁ、と思う葬儀って何だろう。
言うまでもなく葬儀は亡き人の弔いをする時なのに単なるセレモニーで終わってしまう。
葬儀が終わったら食事が出て、みんな色々と話しがあって「お大事にどうぞ」で別れる。
訳のわからない経本をそのままにしたのは坊主の怠慢と思うが、その点一神教では
分かりやすい文の聖書が出来た。でも、きちんと明記すればするほど争いごとの源で
訳のわからないお経を聞いて納得している日本人のいい加減さが平和の原点だろう。
人が死ねば葬儀屋が駆けつけてきて「葬儀社でございます。この度は、ご愁傷様です。
私どもの方にお任せくだされば明日中にも、こうして、ああして・」何も知らない遺族は
「じゃぁお願いします」とウン百万円も葬儀の費用に召し上げられることになってしまう。
病院と葬儀屋は持ちつ持たれつの連絡網がきちんと出来ている。そうとしか思えない。
死ぬ話は嫌だが、今からしっかり終活段取りを付けておかないと死んでからでは遅い。
最近は密葬いわゆる家族葬が多いと聞く。死んでからもみんなに迷惑を掛けたくない。
自分の死に顔を見られるのも嫌だし、実際に人は葬儀場に出かけるのも億劫だろうし
香典も包まなくてはならない。それならいっそ葬儀などしないで後から知らせればいい。
政治家や有名人じゃあるまいし、自分の人生の後始末はそっと消えたいと願っている。
人間は死ぬという確実な前提で生きている。だから墓なんてどうでもいいなぁと考える。
自分は千の風になって飛んでいく。