隠居の独り言(1525)

八月になれば思い出す。終戦直後の日本国内では食料をはじめとする生活物資は
徹底的に不足していた。物資の不足から物価が激しく上昇し終戦直後一年間だけで
6倍も上昇したという。そのうえ軍需産業が解体したため多くの失業者を生じ兵隊の
復員も含め職も無く人々は今では想像もつかない苦しい生活を強いられた。といって
政府も手をこまねいたわけでない。まず石炭、鉄鋼などの重工業の立て直しを行い
GHQの強力な後押しもあって、諸産業は息を吹き返し復興への足がかりが作られた。
その背景に米国を中心とする民主主義国家群とソ連を中心とする共産主義国家群と
関係が冷えて占領軍の施政方針が変化し始めたことによる。日本を西側民主主義の
一員として日本の潜在的な能力を発揮させようとした。案の定1950年に朝鮮戦争
勃発、西側は日本の経済力を無くして戦えない状態で、経済だけでなく、GHQ作成の
憲法9条も形だけはそのままで法を矛盾した警察予備隊自衛隊)令が発せられた。
それにより日本は戦争特需という景気の好運に恵まれ復興の強力な足がかりを得た。
統計によると終戦直後の1945年の日本の輸出は3億8000万だったのが、5年後には
何と2985億円になったことは復興の凄さを物語る。日本経済は輸出により成り立つ
輸出立国という明治以来の本来の姿を取り戻して、着実に豊かさをものにしていった。
自分が上京した昭和24年(1949)、復興のさなかだったことを今更のように思い出す。
帽子も売れて、売れて、寝る間も惜しんで仕事をした、あの頃のことが昨日のように
走馬灯に映し出されている。「人間50年、夢幻の如くなり」信長が詠ったという詩は、
わが身に照らして、しみじみ思う。人生は唯一だけれど貧しさ、豊かさ、悲しさ、嬉しさ、
色々体験させて貰った八十数年に感謝したい。