隠居の独り言(1527)

今年の夏も終わろうとしている。季節はこれから秋冬に向かって下り坂になっていく。
今83歳、人生も登ってきた山を下りねばならない。しかしどのようにうまく下りられるか。
下山も大切な人生の内、人によって晩年を汚す人もいるけれど無事に下りたいものだ。
今は元気でも老化というのは思いがけないところからくる。たとえば新聞がめくれない。
指に油っ気が無くなっているのだろう。唾を付ければ容易いがみなが読む新聞だから
ページをめくるときは端の方から札を数えるようにめくる。老人の汚い行動はいけない。
老いはスタミナが落ちる。物忘れがひどくなる。歩くのが遅くなる。動作が緩慢になる。
頭が薄くなる。皺とシミが増える。目がかすむ。耳が遠くなる。背中が丸くなる。老醜だ。
これから認知症の気配も出てくるだろう。でもこれは年相応の自然の加齢現象だから
本当は幸せに思わなくちゃならない。そうは言っても人生は無常無慈悲なものと思う。
一般的に年寄りは嫌われる。離れていく人もいるが去る人は追わず。めげず生きたい。
「先憂後楽」という四字熟語がある。自分の場合、子供の頃に苦労し若い時は家族を
養うため自らを犠牲にした生き方をしてきたからせめて齢を取るほどにご褒美として
神さまがいい状態を作って下さって・・と思うのだが、自分の甘えで神も仏も関係ない。
人生って何て不合理、理不尽と思ってしまう。積極的な仕事や趣味はもう無理だが、
それでも何かしらの希望、心の慰めが欲しい。頑張ってとか、励ましはもう要らない。
例え病気になって「余命・何か月」と宣言されても延命は無用。葬儀も無用。墓も無用。
子や孫の胸三寸に閉まっておいてくればいい。乱世を自分なりに生き抜いてきたから、
せめて最後は自分の思うままに生涯を終えたい。終活とかの特別行動をとらなくても
生きる気力が衰えたら命の仕舞いどころだろう。わが人生に悔いはない。