隠居の独り言(1543)

蜷川幸雄監督の悲報に続いて俳優・平幹二郎が亡くなった。享年は81-82歳だった。
自分は10月末で83歳半を超える。周りの方々は「元気がいい」「長寿は目出度い」と
有難い仰せだが、報道を見ればこのまま長生きで良いものかと少し心配になってくる。
非生産者の老人の長生きは年金も健保もやがて破綻し、未来の若者に渡せるものは
借金だけと言う笑えぬ悲劇が必然だ。といって何をどうしてよいのかという答えも無い。
今は人類未曾有悲劇の前奏なのか。信じる宗教の本尊たるキリストも釈迦も孔子
ムハンマドも長寿を経験していないから老人への教えも生きる指針も示されなかった。
宗教は「人生50年」を基本に作られてあるので人生80年時代の今は既存の宗教、
倫理に教えを乞うことが空しいものになっている。昨年は我が夫婦も金婚式だったが
正直50年も暮せば互い相手に飽きてくる。でもこれは当然であって人という生き物も
メオトになって、せいぜい30年位しか夫婦の設計は出来ていない。結婚式で神父が
「病める時も健やかな時も共に歩み、死が二人を分かつまで」と誓わされるが、実際
その日から50年先までの誓いだろうか。この言葉が誕生したのは人生50年時代で
今の長寿社会に合致しない。都都逸も「逢って3年愛して5年、飽きて10年あと惰性」
それが人の本性と思う。野生動物は繁殖期が終わると次世代に託して死んでいくが
人間は子供が成人しても、なお倍以上、生きることに執着して寿命が年々伸びている。
谷崎純一郎はスキャンダラスな老いらくの恋をしたし、ピカソも90歳を過ぎて恋をした。
といって彼らの人倫の荒廃を責めているのではない。老いてなお盛んなのは結構で
元気な人の自然の摂理だろう。人は野生動物と違い倫理観や理性があり生物学的な
夫婦の間柄が無くなっても、長年の暮らしから育まれた夫婦間の阿吽の呼吸がある。
人は科学や医学の発展で長い寿命を手にした。これからも益々展開が広がっていく。
「人生五十年」が、僅か一世紀で80年になり「人生百年」も近い将来に実現するだろう。
それでも齢を重ねて、どちらかが病気などで倒れたら介護すべき必然性が待っている。
寿命が長くなっても目出度さと共に苦労も一緒に付いてくる。