隠居の独り言(1563)

先日、用があって千葉市の国道を走ったら昔、入院したサナトリウムがそこにあった。
上京して小僧をしていた24歳のころ、時々胸が息の出来ないほど苦しくなってことが
連発したので医者に罹ったところ「自然気胸」と診断された。肺部を包んでいる肋膜に
何かの原因で穴が開き空気が流れ込んで肺を圧迫して苦しくなる病気だが肺結核
疑いもあるとのことで治療のため病院に隔離された。医学の進歩あったといえ当時は
結核は「死の病」で罹れば大抵は療養所に入れられた。親兄弟が心配するだろうと
最初は知らせなかったけれど、後に分かって随分と親不孝をかけたと今は述懐する。
入院先は千葉の幕張の浜に面した額田病院という風光明媚なところで高台に面した
病院は松林に囲まれ、眼下には幕張の浜の六双屏風のような絶景が広がっていた。
結核で療養所に入れられるというには人が聞けば気の毒な場所と時間と思うだろうが
実際は療養生活も悪くなかった。食べ物に困らなかったし、療養所には何でもあった。
図書室には本があったし囲碁、将棋、俳句、ギターの会もあって時々大会まであった。
素人離れの達者な芸人も多く三味線、アコーデオン、漫談、落語など聞かせてくれた。
囲碁、将棋、麻雀、花札のコイコイもそこで覚えたが療養というのはみなが思うほど悪くない。
親に心配掛けないよう毎日のように手紙を書いた。文章も親に托つけて覚えたと思う。
療養所というのは大学の教授も市井の庶民も共通点の結核と言う点では全員が平等だった。
中には男女の仲になったカップルも多くいた。夜の松林で愛し合った行跡も残っていたけれど
療養所の看護師も見て見ぬふりをしていた。明日も知り得ぬ二人の命を見守っていたと思う。
入院あれば退院がある。一年少々の入院生活だったが、退院しても既に元の席は無かった。
世間の目から見れば結核患者は近寄りたくない人間だった。仕方なく病後を隠して独立した。
人生と言うのは分からない。今の安寧は病気があったからで、克服の喜びと希望は芽生えた。
何もなかったら今頃は下流老人で苦しんでいたかも知れない。