隠居の独り言(1577)

作曲家の船村徹が亡くなった。栃木県日光市生まれの船村徹は自分と同じ84歳で
同じ年の大きな星がまたひとつ消えた。戦時中は軍国少年で、それが突然ラジオから
「耐え難きを忍び、忍び難きを耐え」と終戦勅語を聞いて昭和一桁の人生観を変えた。
自分も上京組だが、田舎からの単身労働者は日が落ちて酒を嗜みながらラジオから
聞く歌は船村演歌だった。だが時代の経過は春日八郎や美空ひばりがこの世を去り
船村徹の死は平成の世も終焉を迎えようとしている。戦後70年の思い出も共に・・
同じ年代の死の寂しさと悲しみは同世代を生きた戦友としてとても他人事と思えない。
多くの人が参列し、祭壇は花で飾られ故郷の日光連山の風景が描かれていたという。
かつて自分がギター弾き語りで老人ホームやホスピス病室の慰問に行っていた頃は
聴いて下さる入居者の最も人気ある歌は、船村徹の「別れの一本杉」や「王将」だった。
一本杉の地蔵さんの前で別れた相手は船村徹の若き日の苦い初恋の思い出であり
「吹けば飛ぶような将棋の駒」は、船村の人生行路の船で謙虚な彼の心を歌に託した。
船村徹は、弟子たちに言葉を大切に歌うことを徹底して教えたが、それは作詞家の
高野公男との二人三脚で、歌詞の一言一句全てが日本人特有の心情を表していた。
船村徹の深みある懐の温かさ、情感溢れるメロディの数々、指針や言葉の人情味は
不二のものだろう。自分の人生を膨らませてくれた船村徹。ありがとう。