夏の終わりに(3)

終戦とともに父の勤めていた会社は倒産した。軍に砲弾の原料の硫黄を納入していた
那須連山にある鉱山の会社はお得意先が無くなって見事に空中分解してしまった。
父は外地(中支)に出征中だったが、僅かばかりの収入も途絶えて途方に暮れたが
母と私は今まで以上に頑張らねばならず、借りていた一軒屋も空けて農家の小屋に
頼み込んで移り父の帰りを待つことにした。朝の新聞配達から農家の雑用の手伝い、
炭焼き小屋の薪運び、荷馬車の運搬の手伝いなど仕事があれば、何事でも受けて
生活の足しにしていた。「長男」の意識と小屋で待つ幼い弟妹の姿が焼きついて
それが当たり前の行為のような気持ちで日々を暮らした。生活は困窮を極めたが
救いは皆が明るく仲の良いのがなによりで、寄り添いながら暮らしたあの日々は
今はとても懐かしく思う。そして一年後のある日、父は突然外地から帰ってきた。
家族は狂喜して父を迎えたが、戦中の苦労からか半病人のように痩せ衰えた姿に、
みな心配した。そのうえ肺を患い足に受けた貫通銃創の傷跡も完全ではなかった。
ともかく以前のように元気を取り戻してもらわねばと食事も父から先に栄養の
あるものを食べてもらって家族全員で大切にして配給の卵一つも父が口にした。
けれど会社も既に無く親戚縁者もいない白河に住む理由はなく父の故郷の姫路に
引越しをすることになった。当時の国鉄の旅行は目的の証明が無ければ切符が買え
なかったが学校の先生に事情を話し証明書を手に入れ家財は処分し着の身着のまま
関西に向かって汽車に乗った。父は復員の手続きや会社の事後処理などで居残り、
祖母、母、弟妹たちと鈴なりになるような超満員の列車に何時間も揺られながら
帰った夏の暑い旅だった。