隠居の独り言(227)

昭和24年春に故郷の姫路駅から初めて上京した時は夜行列車で12時間を
かけて東京駅のホームに足を踏んだ。一等車(今のグリーン)や寝台車は
よほどのお金持ちか特別な階級の人達しか利用出来ない世相でもあった。
長距離列車はいつも混雑していて2人掛けも3人座るのが通例で通路には
荷物の間で新聞紙を敷いて寝ている人も大勢いた。冷房も暖房も一切無く
客車の中はいつも石炭の臭いが滞って窓はいつも半開きの状態であった。
今にして思えば窮屈な旅行をしたものだったがそれが普通だったし耐える
心根はみなが備わっていた。そんな苦行を乗り越えて職を求め夢を乗せて
SL列車はあえぎながらしばしば汽笛を鳴らし走った。当時の東海道線
関西方面から東京に向かう時、沼津駅でSLから電気機関車に切り替えで
その車両切り替え中の20-30分は乗客のほとんどがホームに降りて疲れた
身体を背伸びをしたり、駅の弁当を買ってしばしの休憩を楽しんだものだ。
30年代は「金の卵」ともてはやされて地方から苦難の列車で集団就職した
現在の団塊の世代も一線を退きSL列車の思い出も遠いものになっていく。
今では新幹線で姫路まで3時間少々で飛ぶように走り思えば夢のようだが
日帰りも可能になった反面、なにか味気ない。4年後に九州新幹線が開通
すれば東京から鹿児島までわずか6時間半で行けるという。「苦難の旅」を
経験した者にとって列車の窓は開かないし車窓の景色も防音壁で隠されて
考えようでは客も荷物とたいして変わらない。飛行機も搭乗手続きや荷物
検査など煩わしさがネックで旅行気分も削がれてしまうのが難点の一つだ。
便利になってことは結構だが何かが失われた気がしてならない。