隠居の独り言(283)

落語家の三遊亭円楽が、落語の高座を引退するとの記者会見をしたが一昨年に
脳梗塞で倒れ、そのほかに腎臓を患い人工透析を受けながらのリハビリを続け
一時は復帰したものの「ダメですね、ろれつが回らない」と落語界を降板した。
他人事と思えないのは自分も円楽と同い歳で、今に何があってもおかしくない。
立派なのは少しの不出来も「私自身が許さない」と語った事は、手本にしたい。
歳を重ねると何故か朝が早く目覚める。就寝時間は若い時から変わらないのに
目覚めが早くなるのは一日がその分長くなったわけだが喜んでもいられない。
「若人は一日が短く一年が長い、老人は一日が長く一年が短い」といったのは
哲学者のベーコンだが、若者は日々忙しく長い将来があり、その前途にどんな
夢が待ち受けているか生きる年数の長い分、生きる価値を感じていないだろう。
若い時はそれでよかった。学校で勉強をして大人になれば恋をして子供を儲け
家を建て無我夢中で歳月は流れていった。その時分が人生の“華”なのだろう。
老人になると、その逆で命の先は有限で朝起きて何もすることが無くなったら
一日がとてつも長く感じるに違いない。老いの最も悲しいのは将来の楽しみが
無い事で徐々に衰えていく体力と気力が人生の諦めをきちんと悟らせてくれる。
失ったものは二度と戻らないし、失って初めて気がつくことも多いのも事実だ。
先日、歯を失って部分入れ歯になったが、食べる美味しさは自然の歯に比べて
天地の差で、食後はすぐに歯磨きをしないと口臭の原因にもなってしまう。
健康のありがたさ、平凡な毎日の暮らしがいかに大切で特別のものであるかは
失って初めて気がついた後悔も、愚かな人生の至らなさであったのだろう。
過ぎ去った日々は戻らない。でもどんなに悪い経験があっても遠く長い年月の
ベールは美化してくれるし「そんなこともあった」と笑い飛ばせる事も出来る。
古希を過ぎれば生きることがオマケで、生の貴重さを実感できる成熟の日々だ。
どの時代の老人も自らの薀蓄を充分に生かせなかった事を悔いていただろう。