隠居の独り言(393)

8月になれば終戦を思い出すのも戦時中の体験があまりにひどく、生きた
70数年の人生の中でも最も凝縮された時間が詰まっているからだと思う。
当時は大阪から福島県白河市疎開していたが東北地方も安全地帯ではなく
終戦間際に三陸沖に停泊していたアメリ第7艦隊の空母から毎日のように
米戦闘機P51数百機が福島県中通り(県中部)を低空飛行で関東地方に
向けて飛び、都市を攻撃するサイパン等からの爆撃機の援護に向かっていた。
P51戦闘機は飛行中に人影を見れば容赦なく機銃掃射を浴びせてきたので
空襲警報が鳴る度に人々は森の中や防空壕に逃げ込んだ。それは怖かった。
近くの郡山市が空襲にあった時は二晩も空が真っ赤に染まり恐怖心で凍えた。
食料は飢餓状態で学校の授業も殆ど無く生徒達は校庭や近くの山を開墾した。
しかも関西から東北に住み替えた者には言葉の壁と偏見が子供心を苦しめる。
でも良かったのは鶏を飼った事で、馳走は卵だがそれも一個を分けて家族で
食べた記憶は楽しくもまた哀しい。産まなくなった鶏を捌くのは私の役目で
文章にはとても書けない残虐な行為も飢餓の経験の中では人間性も無くした。
夜は灯火管制で電気は付けられず暗闇の中の生活は思い出しても暗くなるが
そんなに極限の生活を強いられてもまだ日本が勝つと信じていた少年だった。
生徒動員で派遣された農作業から帰ったあの日、母から「戦争終わったよ」と
告げられた。信じられなかった。信じたくなかった。日本が負けたなんて・・
泣いた。無性に悲しかった。何もかもが虚ろになって涙が止まらなかった。
1945年8月15日の思い出は暑さと、ひもじさと、惨めさと12才の少年の
心を大きく傷付けた。小学校は殆ど通えなくても、憧れた軍人になるために
陸軍幼年学校に入りたくて働きながら猛勉学したことも全てご破算になった。
大きな夢が消えた。これが私の戦争体験記!強くなくては幸せになれない!
体に沁みた経験は今も忘れない。


PS  しばらく、ブログの夏休みをさせていただきます。