隠居の独り言(509)

今年の桜も見ごろを迎えている。思えばこの世に生を受けて桜の花を見るのは
今年で75回目ということになる。花が愛おしいのは命の残量が少ないせいで
時の流れが、いかに大切なものかを歳を重ねて初めて気が付くものだろう。
花吹雪が舞うさまは、若い時なら自然の醸し出す素晴らしさに感歎したものも
今では散る花弁に、この世の儚さを感じ、人の一生の儚さも悟るようになる。
西行法師は「願わくば花の下にて、春死なん、そのきさらきの望月のころ」と
詠ったが、法師もどうせ命を閉じるなら桜のように散る美学を感じたのだろう。
それはさておき自分に置き換えてみれば生命力に溢れている若い時分は老いも
命を閉じる死に対して無頓着で観念的だったけれど、さすがこの年齢になると
ゴールが現実的になり、終い支度をきちんとしないと静かな往生を飾れない。
先日、平成20年に新制度化された「後期高齢者医療被保険者証」と云うのが
我が家に配送され今までの保険証と変更になったし、新しい道路交通法では
75歳以上の運転する車には「紅葉マーク」の前後の取り付けが義務化された。
こちらが黙っていても世間が「年寄り」の烙印を押し付けるのは余計な節介だ。
老いは哀しいものだ。外見の変貌は日々醜くなっていくし体力、気力、器官の
衰えは逆戻りすることはありえない。願っているのは「その時」まで、健康で
充実した長寿であり最期は肉体が枯れるように老衰死を迎える大往生が夢だが
こればかりは神様の思し召し次第で自分ではままならない。平安の伊勢物語
「遂に行く、道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思わざりしを」が、あるが
遂に行く道とは浄土への道で、いつどうなるか分からない。それが人生だ。