隠居の独り言(646)

歳を重ねてつくづく思うのは、ゴールまで粋な老後でありたいと願っている。
“粋”とは何だろうか?べつに定義があるわけではないので凡人には不明だが
粋の字解きをすれば米偏に卆と書く。米の字は八十八で、昔の両親の教えでは
ご飯を食べる前の「いただきます」の挨拶はお百姓さんが八十八の手間を掛け
丹精込めて作ったのだから一粒たりと粗末にしてはいけません。天の神さまと
地の神さまと、ご飯になるまでの人々のご苦労に感謝する言葉だと諭された。
それとは別に米の字の八十八は米寿の祝いの言葉として愛でたし、長く生きた
その人の生涯の様々な多くの経験と実績を象徴する意味合いの数字でもある。
“米”を卒業して初めて“粋”になるわけで、ある程度の年齢が必要だろう。
“粋”の条件は「野暮にもまれて粋になる」の言葉にあるように真面目一本の
人生を送った人は面白くなく多少のアウトロー的なワルやアソビも粋の内だが
格好いい粋人は善悪を知りながらけっして表面に出ないで人柄に表れてくる。
講談や落語などに出てくる江戸時代の粋な人は、商家の若旦那や隠居などの
世間離れした遊び人に醸し出されるものだそうだが時代とともに粋人も変わる。
いつも生活に追われた人、忙しい人、反面に、偉い先生、肩書きの多い人には
粋は培われないし、どのような多芸・多才でも、それを得意げにするようでは
キザであって粋でない。多くの失敗や恥が体の一部になった真の人が粋であり
自ずとその人に滲み出るものだ。粋とは、人のお付き合いでも競うことなく
己をまげてでも相手を優先し人格や人生観を尊重しけっして迷惑を掛けずに
ほどほどの距離を置く。茶道の侘び寂びに通じると思うが、つましく生きて、
そっと身を引いていく。“粋”とはそんなもの・・最期に棺桶の蓋を閉めて
「爺ちゃんは色々あったけれど、いつも粋だったよなぁ」と言われれば本望!
生きた甲斐があったというものだ。そのような生涯でありたい。