隠居に独り言(654)

1972年のレコード大賞は「喝采」だが、当時ファンだった、ちあきなおみ
今はどこでどうしているのやら・・あれから30数年、時は待ってくれない。
♪いつものように、朝があき、
孫の世話する私に、届いた報せは、
ブログの説明で、ありました。
あれは2004年、好きな本の題に因み
流行りはじめたブログ、ひとり書きだした。
ひなびた家の昼さがり、パソコンの前に、たたずみ、
萎びたわたしは、語る言葉さえ、失くしてた・・
いつの日か、播磨屋ブログも語る言葉さえ失くして閉じることになるだろうが、
この週末に、長らく世話になった越後屋つれづれ日記のDOZZY氏がブログを
閉鎖されるとかで、とても淋しい思いがする。DOZZY氏の一徹の人生哲学は
真似の出来ないレールの転轍機の操作の潔さに感ずる事が多いがブログの中の
彼のギター界の編集や創作の努力は見事もので全国から惜しまれているだろう。
年月の流れは四季の移ろいのように様々なものを変えていく。彼のみならず
二・三の友人がHPの閉鎖あるいは縮小されているのは年月の経つせいなのか、
ブログの節目なのか。何ごとも始めあれば終わりありきで、承知はしていても
いざ自分となると決断が付かない。世の儚さ、時の無常さ、ブログを通じて思う。
思えばブログとは自分を語るエッセーで淡々と日常のパーソナル・ヒストリーは
人から見れば面白くもなんともないが自身ではそれなりの快感があるのも事実だ。
高度なテクニックも筆力も芸も無い私がここまでこられたのは見てくださる方の
お陰で感謝してもし切れない。人に見せられない日記は孤独だが、ブログは開放で
多くの素敵な友に恵まれ、そのうえ豊富な勉強をさせていただいた私は幸せ者だ。
忙しい時、物憂い時、或いは迷った時など、更新をするのが億劫な日のあるのは
正直の話だがブログの中毒や奴隷にはなりたくないと思いながら今日も綴っている。
「昨日またかくてありけり、今日もまたかくてありなむ、この命なにをあくせく、
明日をのみ思いわずらう」島崎藤村千曲川旅情の詩は、今の私に語っている。