隠居の独り言(812)

幕末の頃、土佐高知城の近くに流れる川に架かる播磨屋橋のすぐ傍の屋敷に
一人の若者が住んでいた。22歳の若者は居合術、柔道、馬術の武芸に練達し
書道、詩文家も長けていた。つまり文武両道、何をしても群を抜いていた。
若者は土佐10代・山内豊策の側室から生まれた5男で生涯を無役で暮らす、
いわゆる連枝の身分で、毎日が生きているだけが仕事のような若様だった。
人の運命は分からない!嘉永元年、長男の11代藩主が若くして病死したが
子供が無く次男が家督相続、その次男も幕府に挨拶のため国許から江戸への
道中に急死、三男は養子に出ていたため急遽日陰者の分際に土佐24万石の
太守に祭り上げられた。凡庸な殿様が多い各藩だが、この若者、山内容堂
またたくうちに四賢候の一人になり幕府の相談役として天下国家を論じたが
安政の大獄で失脚、桜田門外の変で蟄居から解かれると国家公論より土佐の
身分差別に執拗に動き出した。容堂にとってケモノのような身分の郷士らが
土佐勤王党と称して京都を舞台に攘夷運動の旗頭になっている。その首領は
武市半平太(大森南萌)・・しかも天下の名士になっているとの評判を聞けば
飼い犬に手を噛まれたような気分に激昂したという。土佐藩主は関が原の折、
徳川から土地を拝領した恩があり勤王倒幕の薩摩や長州とは一緒じゃない!
勤王と聞けばむしずが走る。容堂は土佐勤王党の撲滅を計り全員帰国命令で
片っ端から逮捕し吉田東洋暗殺の名目で志士全員を拷問にかけたが吐かない。
ついに以蔵(佐藤優)が吐き、半平太はじめ全員が切腹あるいは斬首された。
竜馬伝(福山雅治)を藩主の立場で見ると長州・薩摩・水戸等の殿様たちは
優れた部下の思うように政治を任せたが土佐の場合、藩主がなまじ出来物で
郷士を弾圧したので脱藩者が続出し、ある者は天誅組に加盟して大和で倒れ、
ある者は長州に奔り、ある者は新撰組と戦って斬られ、ある者は行き倒れた。
幕末こんなに脱藩したのは土佐だけで、いかに容堂が冷徹な人間であったか・