隠居の独り言(814)

いつの頃から歴史が好きになったかは漠然としているが、その原点は遊びだった。
大阪に住んでいた幼年期、近所のガキ仲間と遊んだチャンバラゴッコが源にある。
徳川と戦う真田十勇士新撰組と戦う志士たち、宮本武蔵塚原ト伝などの剣豪、
戦国時代から幕末に生きたヒーローに成りきって棒を剣に代えて振り回していた。
当然、名前も覚えるし歴史的背景も身体の一部になっていた。今に思えば幼稚な
遊びも決して無駄な時間でなかったのは懐かしさとともに良い学習だったと思う。
それにしても歴史は古今東西、勝者の立場で語られる。土佐の場合も上士出身の
板垣退助佐々木高行、土方久元、谷干城後藤象二郎青木崇高)等は明治に
入ってからも活躍したが、郷士出身では田中光顕など数名で差別は後を引いた。
今や坂本竜馬福山雅治)は日本人の誰もが知っている英雄も、明治になって
生き残った志士も彼の功績を語らず、大政奉還の基本にもなった竜馬の考えた
船中八策」も後藤象二郎があたかも自分の案とし山内容堂から将軍・慶喜
提案されたが、竜馬の功績は明るみに出なかった。維新の英傑たちの殆どは
自らの業績は吹聴しても黒子の役目をした竜馬の苦労を語ろうともしていない。
竜馬が一般に知られるようになったのは死後40年も経ってからで日露戦争の時、
明治皇后・美子の夢枕に龍馬が立ち、皇后はこの人物を知らなかったが宮内庁
田中光顕(土佐勤王党出身)が龍馬の写真を見せたところ、この人だと話された。
事の真偽はともかくこの話が全国紙に掲載されたため龍馬の評判が全国に広まり
日本海海戦で日本が大勝したことで皇后の意思により京都霊山護国神社に祀られ
正四位が贈られる。そして最も広く世に知られたのは1960年代に司馬遼太郎
新聞連載で「竜馬がゆく」を発表してからで、これによって竜馬像が確立する。
ドラマはついに、半平太(大森南萌)が切腹を仰せつかり土佐勤王党が壊滅する。
歴史の残酷さは取り返しがつかないが、多くの人の無念が史実の影で泣いている。