隠居の独り言(819)

人生も第4コーナーを廻って今は親しい友とラテンの弾き語りを楽しんでいるが
好きな歌と楽器を弾く面白味は人生の趣味である音楽の集大成だと思っている。
振り返って様々なジャンルの音楽があった。この世に生まれて祖母や母の歌声が
いつも傍にあったし、ラジオもTVも無い時代では子守唄が唯一の睡眠剤だった。
今も孫たちに童謡の100曲位をいつも唄えるのは母達のおかげだと感謝している。
あの頃の子供達は歌をよく歌ったものだ。田舎の畦道でも街の横丁でも日本中が
子供達の歌声が満ちていた。今は子供も少なく歌も喧騒も聞こえず淋しい限り・・
小学校の頃、兵役から戻ってきた父は毎晩のように寅蔵の浪花節を唸っていた。
「♪旅行けば〜駿河の国の茶の香り〜名代なるかな東海道〜名所戸籍の多い所〜」
歌を通して清水次郎長一家の任侠話を知ったし、股旅物の小唄もよく聞かされた。
そういえば父は伊那の勘太郎の唄も大好きで歌う。「♪影か柳か〜勘太郎さんか〜
伊那は七谷〜糸ひく煙〜〜・」この勘太郎国定忠治の子分で活躍したらしいが
ガキ仲間の遊びにすぐに取り入れられた。お控えなすって・手前生国と発しますは・・
チャンバラゴッコの出だしのセリフだった。三度笠はヤクザ者が旅に出る時に被るが
顔を隠す格好もサマになっていた。あまりのヤンチャ坊主に母は心配して近くにあった
教会へ連れていった。素直と言えば聞こえがいいが仲間から足を洗った少年は程なく
聖歌隊の一員になっていた。音符の読み方、発声の仕方、牧師さんは丁寧に教えてくれた。
♪くすしきみ恵み、我を救い、迷いしこの身も立ちかえりぬ・アメージンググレイスや
聖夜の讃美歌もこの頃に覚えたが戦争が盛んになって欧米の歌は反戦歌として歌うのも
聴くのも禁止された。家近くで母が小さなカフェを細々と経営していたが、備えてあった
ラッパのような拡声器の蓄音機でボリュームを下げてコンチネンタルタンゴなど聴いた。
小さな喫茶店、ジェラシー、イタリーの庭、奥様お手をどうぞ、子供心にも胸に沁みた。
当時のレコードは一回聴いたら「針」を取り替えねばならず、当時を母が述懐していた。
昭和19年頃になると戦争がますます激しさを増してきて、音楽どころではなくなった。
住んでいた大阪から福島県の白河に疎開することにした。家も家具も蓄音機も何もかも
整理して、逃げるように一家は大阪駅を後にした。続きは次回に・・