隠居の独り言(820)

福島県白河の西に聳える那須連峰に父の勤め先の鉱山会社の硫黄採掘所があり
一家は事務所がある白河の町に家を借りて暮らすことになった。家族にとって
何もかもが一からの出直しだったが、最初に困ったのは言葉の問題で東北弁の
世界では関西弁は通じない。情報化社会の今と違って当時は標準語さえ丁寧に
話さないと意思の疎通が難しかった。当然のように学校ではイジメに遭ったが
その話は忘れることにして・・・学校といっても戦争の影響は教育にも沁みて
授業は殆ど無しに等しく校庭は畑になり、生徒達は近くの山麓へ開墾に出かけ
食糧増産を担った。生徒達が開墾に向かう時はスキやクワを担いで隊列を組み
行軍には歌がつきものだった。♪ここはお国を何百里、離れて遠き満州の・・
歌は苦しい道のりを助けてくれたし、生徒にとってここは満州の開拓地だった。
「戦友」の他も軍歌はいっぱい歌った。海ゆかば愛国行進曲ラバウル小唄
敵は幾万、若鷲の歌、麦と兵隊、同期の桜、父よあなたは強かった、きりがない。
余談だが今の老人ホーム慰問演奏では「戦友」が最も受ける歌で老人は涙する。
軍歌とは戦争のために生まれ、戦争の中で生かされ、戦争が終わると終結する。
言ってみれば使い捨ての歌だが、その中でも思い出が深いのは「海ゆかば」で
その哀愁の歌詞とメロディーのインパクトは太平洋戦争を象徴する歌といえる。
海行かば水漬すかばね、山行かば草蒸すかばね、大君の辺にこそ死なめ・・
万葉集に収められた大友家持の詩にメロディーがつけられたものだが曲が持つ
荘厳さと悲壮感が戦争への国民の共感を受けた。大本営発表のBGMだったし
戦死者を弔う鎮魂歌としても歌われた。戦争に明け暮れた時を生きて苦しみを
味わった人たちにとって「海ゆかば」は、あの時代だけの特別の歌といえる。
声を枯らせて無邪気に歌っていた軍国少年だったが、夢が覚めて気がついた。
つづく・・・